石の嫁ぎ先

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亀山城(沼城)跡の記念碑「直家親子三人をイメージ」

   「わぁ、親子三人仲むつまじい感じが良く出ているわ」と独り言をいいながら宇喜多直家、秀家親子を見つめました。ここは上道の浮田小学校の近くの亀山城跡です。鳥居をくぐり急な階段を一気に登ると、亀山城跡(沼城)はありました。ここも岡山城築城400年記念で、犬島から白いみかげ石を運び平成9年にモニュメントを作っております。向かって左が少し大きく『直家飛躍の地』右側は『亀山城跡』と刻まれた高さ1メートル、重さ1.8トン〜1.5トンの碑が寄り添うように建っています。その間に『秀家生誕の地』と彫られ、ぴかぴかに磨かれた丸い玉が置かれています。直家、お福が秀家を守るようなイメージをしているのでしょうか。
   その碑はお城の石垣を「打ち込みはぎ」のように積んだ上に設置しています。私の好みは「野面積み」で荒々しい積み方が好きなのでちょっと気になりました。
   直家は主君浦上宗景の命により、しゅうとである亀山城主中山備中守を殺害しました。戦国時代では親子でも目的のためには殺しあっていたのです。浦上宗景は褒美に亀山城を直家に与えました。直家は新庄山城からここに移り住みました。31歳、永禄2年(1559)のことです。
   時を経て絶世の美女お福が、津高郡下土井村から嫁いできました。二人の間は仲むつまじく、亀山城にて天正元年(1572)玉のような男の子が生まれました。直家はその子に自分の幼名八郎(のちの秀家)を与え、宇喜多の家が八の字のように末広がりに繁栄する事を祈りました。その年直家親子は岡山城に移ります。秀家生誕の地は、岡山城だという説もあります。生まれた年と岡山入城が同じ年だったからでしょう。
   お福さんとの新婚生活で後継ぎにも恵まれ直家にとっては、生涯で最高の充実した時期だったでしょう。この地で、お福さんが直家の奥方としてかいがいしくお世話をしている姿を想像しながら、亀山城にわかれを告げました。

亀山城跡に建つ記念碑

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