石の嫁ぎ先

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新庄山城跡の記念碑「直家、最初の奥方の悲話」

 上道公民館に車を止め館長さんの案内で、南に向かって7〜8分歩いて行くと新庄山に着きました。うっそうと木々が茂る新庄山の上り口に記念碑はありました。この碑も岡山城築城400年を記念して犬島産の花崗(かこう)岩で平成9年の12月に造っております。
 横5メートル、奥行き3メートルで囲んだ上にチゴザサとハイビャクシンを植え込み、不規則に乱雑に石を積んでいます。塚のようになっておりその上に丸いおだんごのような約1メートルの自然石が置かれ『新庄山城跡』の文字が大きく掘られています。木々のすぐ下にあるのでまだ新しいのに木の渋が付きずっと前からそこにたたずんでいるような威厳がありました。
 新庄山城の文字を見ておりましたら、宇喜多直家の最初の奥方奈美さまのことが思われました。天文18年(1549年)21歳になった直家は乙子城から上道郡の新庄山城に移りました。浦上宗景のお世話で亀山城主中山備中守の娘奈美と結婚しました。中山備中守はこのころ浦上宗景に属していましたが、もともとは違っていました。直家と政略結婚をして備前西部への進出を企てていたようです。
永禄2年(1559)正月の年賀に参上した直家は主君宗景より大変なことを言い渡されました。妻の実家の亀山城主中山備中守に謀反のうわさがあるので殺すようにと言われました。妻との間には二人の女の子も出来ていました。
 しかし戦国武将の直家は主君の命令に逆らうことは出来ません。心を鬼にして討つ約束をしたのでしょうか。
 その年の晩秋、しゅうとの亀山城主中山備中守より酒宴のお誘いを受け泊まりがけで出かけます。酒宴が終わり床につこうとしたしゅうとをだまし討ちにして殺害しました。
実父が殺された事を新庄山で聞いた奈美さまは夫直家を恨みながら二人の娘を残し自害しました。戦国時代の非情の宿命でしょうか。奈美さまの無念を思うと胸にキューンと痛みを感じながら新庄山を後にしました。

新庄山城跡の記念碑

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