石の嫁ぎ先

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山南公民館前の記念碑「長い樋門石を切り加工」

 岡山市邑久郷にある山南公民館を訪ねました。正門入り口には幸島新田の樋門に使用された石を利用した記念碑があります。この記念碑について廣井弘先生にお話をうかがいましたところ、この樋門の石は南水門(幸地崎川排水樋門)の改修工事の時昭和32年に撤去したもので、前の山南中学校(公民館はその跡地で昭和63年10月完工)の時に譲り受け、体育館の前に建てておりましたが、中学校が移転となった後に記念碑として、設置されたということでした。
 「幸島新田300年記念誌」によりますと犬島の石が使われたとなっておりますが、すべての石材が犬島産ではないので確証がなかったのです。今回東田石材の石職人吉川、菊井両氏を伴って訪れました。一目見た2人は同時に「まさしく犬島の石じゃあ。犬島の石の欠点がようでとる」「上石(山の上のほうでとれる石)は帯状の筋が出来るものもあるんじゃあ」と石肌をなでながら言われたので私も安心しました。
 近くにも石はたくさんあったでしょうが、やはり長く大きな物は犬島産の石でした。この記念碑は長い樋門石を切って加工しております。
 幸島新田は、今から約320年前、岡山藩主池田綱政の命を受け津田永忠が造営しました。彼の右腕となって働いたのが河内屋冶兵衛という石工です。河内屋冶兵衛は大阪の人ですが池田家に召し抱えられ岡山に住んでおりましたが、その子孫は西幸西村の岸野家です。
 乙子村、神崎村沖の幸島新田の着工が進められ、くわ入れは貞享元年(1684)2月1日、潮止めが完成したのが同年6月と記録に残っています。新田の成功の秘密は永忠が配下の人らに考案させた新田開発の新技術の導入でした。それは河口部に設けた樋門(水門)と大水尾(遊水池)の結合による排水処理の技術でした。この技術を石工冶兵衛の手によって完成させたのです。素晴らしい技術に目を見張りますが、その樋門に犬島の石が使用されていたのです。
 この新田開発によってこの地は豊かな地となり秋にはたわわに稲穂が実ったのです。廣井先生に場所をお聞きして大羽島にある河内屋冶兵衛のお墓参りをしました。
 小高い岸野家の墓所はきれいに整地され初代河内屋冶兵衛夫妻の立派な墓が並んでいました。新田のすぐ側でおだやかに眠っておられました。犬島の石を非常にたくさん使って大事業を成した冶兵衛に親近感を覚え「ありがとう」とお礼をいってお墓をあとにしました。

山南中学校の門柱に使われていた樋門の石

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