石の嫁ぎ先

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閑谷学校「靴脱ぎ石にさび石の特徴」

 備前市にある閑谷学校へ行きました。過日、NHKテレビで閑谷学校が放映され、講堂の中で門弟たちが暖をとった「飲室大爐(ろ)」の石が、たぶん犬島産ではないだろうかと、上西節男同校次長がおっしゃっておられましたので、お訪ねしました。「飲室大爐」に対面し、上西さんにお話をうかがいました。
 資料は見つかっていないのですが、和気の和意谷の墓所もすべて犬島の石を使っているなど、総合的に考えて犬島の石だと考えられるとの事です。300年も前から燃やしたであろう石は黒く焼けていて、判断がつきにくいようです。1メートル四方の大きな石をくり抜いて造られており、火事には特に気をつけたと思われ、「断火中炭火之外不許薪火」と石に彫ってありました。
 他の石はどうかな。と探して見ました。「聖廟」にお参りしました。ここは孔子を祭っている閑谷学校で最も古い建物です。心鎮めて手を合わせ基礎石を見ますと、大きなまんじゅう型で石英と雲母の割合から、はっきりと犬島の石だと確信しました。寸分の狂いもなくコケもつかず、キチンと建物を支えています。
 次は紅葉で有名な櫂(カイ)の木のそばを通り、講堂の中に入りました。ピカピカに磨き込んだ講堂内部には背筋がピンと張り心が改まります。本当に江戸時代に庶民のために、このような立派な道場を造ったのかと心をうばわれました。
 飲室大爐の石は自信がありませんが、ふとそばの靴脱ぎ石をみますとまさしく犬島石の特徴が良く出ており、白い石肌に銅の交じった淡紅色さび石が筋となって入っています。じっと見つめておりますと、津田永忠がそばに来て一緒に眺めているように思われました。
 永忠は池田光政に命じられて、墓所の候補地を探しました。彼は和気郡の山々を歩き回り、木谷村(閑谷)と脇谷村(吉永町和意谷)を選び光政公を案内いたします。閑谷を訪れた光政はこの土地が非常に気に入り、墓所にするより将来領民のための学問所にしたほうが良いと考えました。
 永忠は翌年寛文7年(1667)に、大阪から石工河内屋冶兵衛を呼び、和意谷にすべて犬島産の石を用いて立派な墓所を造りました。その後、寛文10年に閑谷学校の建設を命じられ、およそ20数年の歳月をかけて完成させています。
 備前焼の屋根と延長765メートルにもおよぶ石塀の色の調和の美しさに息をのみ、永忠の芸術家としての才能を再確認させられました。大切に守られた文化財、岡山県の誇りの建物に犬島がかかわっていたことに感動し、犬島石だという記録が見つかる事を祈りながらおいとましました。

閑谷学校で最古の建物「講堂」の写真
閑谷学校で最も古い建物「講堂」
黒く焼けた「飲室大爐」の写真
黒く焼けた「飲室大爐」

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