土木巧者津田永忠と犬島
まとめ
     和意谷墓地築造は永忠にとって最初の仕事でした。しかも主君光政の儒教政治の先駆的役割を果たす意味をもった仕事でした。このあと彼がした仕事には、岡山藩校、閑谷校の開設、つづいて旭川以東での干拓事業、水利事業等があります。
 閑谷校は誰もが知っているように、庶民教育の機関、それも儒学を教える機関でした。また干拓・水利事業は長い目でみると、農民に福(生活向上)をもたらすものです。旭川以東の事業で彼の手になっていないものはありません。ついでに申しますが、旭川以西の干拓・耕地造成は和気清麻呂の子孫の人たちの手で、江戸初めに行われています。
 こうした事業の費用のために、永忠は社倉米の制度を創設しています。社倉米の制度は現代式にいえば、金持ちの営業利益を基金にした超低利の公営貸し付け制度です。多くの人が直接間接にお陰をこうむりました。
 しかし、池田光政の愛民思想は農民たちを甘やかすものではありませんでした。当時の農民としての義務遂行を厳しく求めての愛民でした。津田永忠も、これを受けて事業を進めました。そのためか、「永忠普請はえらかった!」という言い伝えが、今も村々に残っています。ところが彼は、そのえらさ・苦しさに勝る福を農民に必ず保障しています。そこが彼の見どころ、本領です。
 「功なきを賞するは国の滅びなり」という古諺(こげん)があります。永忠の手法はこれをよく踏まえています。怠け者を賞したりは絶対していません。現在、頂門の一針の意味をもっているように思います。
 いずれにしても、犬島の墓石切り出しは、光政の仁政の突破口を象徴し、土木巧者永忠の最初の腕の見せどころではなかったでしょうか。この意味で、犬島の「石」は、岡山近世史の上で意味ある存在であったと言うことができます。

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