アジア航海図

重要文化財 桃山時代 縦50.7cm 横76.7cm

 わが国の海外交流の歴史をみれば、ポルトガル人の種子島上陸は1543年、フランシスコ・ザビエルの鹿児島への第一歩は1549年であった。昨年はザビエル来日450周年に当たり「大ザビエル展」が開催され、その生涯と南蛮文化の遺宝が展示された。当時急速に取り入れられた南蛮文化としては、鉄砲とキリスト教以外に、日本人が全く知らなかった世界の地理情報があった。ポルトガルをはじめヨーロッパで作られた世界地図や航海図がわが国にもたらされたのである。
 1590年に帰国した天正少年使節は、パトヴァにおいてオルテリウスの世界地図帳や海岸、島嶼(とうしょ)を記した航海図を贈られ、これらを持ち帰っている。それまで、日本、唐、天竺三国を世界の全てと考えていた日本人に、ヨーロッパ、アフリカ、新大陸アメリカや南方アジアへの目を開かせることとなった。
 他方その頃、日本人の東南アジアへの渡航が盛んとなっていた。とくに1592年(文禄元年)、秀吉によって制度として確立されたいわゆる朱印船貿易は、高砂、安南、交趾、カンボジャ、ルソン等広範囲に及んでいた。これらの貿易航海に必要な航海図が、当時ポルトガル航海図を基礎として、日本人により作成されることとなったのである。
 当館所蔵の「アジア航海図」(昭和59年6月6日 重要文化財指定)は、このような経緯から作成され、朱印船貿易に使用された貴重な航海図の一つとされている。本図は、縦50.7p、横76.7p、羊皮紙著色で表面全体にわたって胡粉を施し、朱、黒、茶、萌黄、藍等で彩色され、保存状態も良好である。池田家伝来のものであるが、作者は明らかでない。製作年代は、桃山時代で文禄年間かと推定されている。
 本図では、東は日本、西はインド、ペルシャ湾、南はジャワ諸島、北は中国、ロシアまでが図示されている。縮尺を示すスケール標示は中央上方と右下方に各一つある。縦横に経度、緯度が図示され、左端イラン周辺とインド洋には緯度を示す度盛がみられる。方位盤は、インドの北上方、インド洋の南下方とフィリピン東側におかれ、他に18個の中心点がある。そこからの放射線は、13世紀イタリアに始まる海図の形式が16世紀のヨーロッパ地図で用いられたもので、いわゆるポルトラーノ型海図といわれるものを基礎としている。また、図の中では、ポルトガル国旗、十字旗(キリスト教)、新月旗(回教)か掲げられている。
 日本について言えば、現在の北海道を欠いていること、東北地方東海岸の出入りが大きいこと、東京湾及び駿河湾とおぼしきところがかなり広いこと、四国は半円形で九州は細長くなっていること、などが特徴的である。瀬戸内海の島々が赤点で示されていることも興味深い。
 国名、地名等の註記については、ポルトガル語と邦訳名が記されており、地図ではわかりにくいものもあるが、いんぢゃ(AINDIA)、ぼるねよ(BORNEO)、ぺる志や(APERSIA)などが読みとれる。高麗、呂宋などは邦名のみである。 当時ヨーロッパの地図では、アジア部分は未知の分野が多く、その点でポルトガル地図
を原図としたアジア航海図は、日本人の知見によりアジア部分を改描したものと思われる。その意味ではより事実に近い地図になっているといえよう。
 以上のような背景と内容をもつ「アジア航海図」は、当時の人々の、アジアや世界に関する新たなる認識への知的欲求と、理解の深まりを端的に示す作品であり。美術的価値とともにわが国の対外交通史の上からも貴重な歴史的資料となっている。


前の作品へ目次に戻る次の作品へ