全三十六巻のうち 巻第十一上「那須与一」
江戸前期 縦35.3cm 全長3300cm
ある入札目録の1ページ。全売立て品目273件の内の72番として、12の抽斗(ひきだし)を持つ黒漆塗の箪笥・筆者目録・巻子本・絵巻の場面(2カット)のモノクロ図版が掲げられています。これが、現在林原美術館に所蔵されている「平家物語絵巻」が世に出た瞬間でした。帝国大学卒の初任給が40円ぐらいだったともいわれるこの時代に、5190円という高値で落札されていますから、その価値のほどが窺えるというものでしょう。昭和4年(1929)2月12日東京市芝区愛宕下の東京美術倶楽部で開催された入札会での出来事です。
この日、古美術商「森与」によって「平家物語絵巻」は落札されますが、長らく誰の手に渡ったのか不明のまま時が流れます。そして第2次世界大戦後、当時積極的に美術品の収集をしていた故林原一郎氏が、東京の「朝日美術」から購入し、いまに至っています。問題の売立目録は、旧越前福井城主・松平侯爵家御蔵品入札目録であり、この絵巻のほかにも、城主の暮らしの様々なシーンを彩ったであろう品々で埋められていました。
金文字で各巻の題名がかかれた黒漆塗りの抽斗を見るだけでも、注文主が並のものではなかったことが察せられます。また、付随する筆者目録から、詞書(ことばがき)は公家・武家・滝本坊、絵は土佐左助、外題・初巻は青蓮院御門跡、箱銘書は西本願寺門跡であることまでは分かりますが、これ以外に絵巻に関わる資料は残念ながらまだみつかっていません。しかし、それは「婚礼調度として、娘に持たせたのかもしれない。親は、娘は誰?」、「その姫はどんな気持ちで絵巻を眺めたのだろうか?」などど、絵巻の流転物語を自由に想像できる楽しみがあるということでもあります。
学生時代、歴史や古文が苦手だった方でも「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理りをあらわす。奢れるものも久しからず。ただ春の夜の夢のごとし・・・」という冒頭の名調子は、スラスラと出てくるでしょう。その他は、ごく有名な数場面しか思い浮かばないかもしれません。入札目録の図版には「那須与一」と「壇浦合戦」が載っているので、ここにも登場させてみました。激しい合戦の最中に催されたショー、敵味方を忘れて与一を褒めたたえます。しかし続く場面では、この余興に酔い痴れて船上で舞っている平家の武者を「射よ!」という義経の命令が与一に下されます。そういう条(くだり)をご存じでしたでしょうか?他の作品では見られない場面も、12巻本の「平家物語」を36巻の絵巻に仕立てあるため、絵の数は705場面もあり、全巻を繋げば約1qという、この絵巻では見ることができます。まさに平家の栄枯盛衰が余すところ無く描かれていて、古典嫌いもつい引き込まれてしまう一品、いや36巻なのです。