一の荒手(いちのあらて)

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宇喜多秀家は岡山城防備のために城を囲むように旭川の流れを迂回させる大改修を行った。しかしその結果城下はたびたび大洪水に見舞われ、時の藩主池田光政は、城下を洪水から守るために熊沢蕃山の「川除けの法」に基づき津田永忠に命じて百間川築造に着手。その手法は、三段の荒手の設置によって遊水池と放水路を巧みに組み合わせて流速を抑え、土砂を流れにくくして、下流の被害を軽減し、重層的に洪水調節しようというものだった。一の荒手はその第一の荒手で、旭川との分岐点にあたる。