岡山市民の文芸
随筆 -第53回(令和3年度)-


彼は恐竜 二士山 郁 乃


 彼は私の最初の勤め先に居た。
 社会人とは名ばかりで職場ではどこか自分を仮置きしているようなぎこちない毎日の中で、彼は唯一心うちとけられる存在だった。彼の魅力は何といってもその風貌にある。長く伸びた首と背中のゆるやかな丸み。尾は流れるような曲線を描き、体に比べて小さすぎる頭でどこか笑っているような切れ長の目は優しい。巨体ながらも威圧感がないのは、彼が誰とも親しくなりたいという気持を全身から発しているからだろう。とりわけ彼は子ども達に愛され、その歓声に囲まれる彼は羨ましいほど幸せそうだった。
 昼の休み時間に余裕があれば、彼に話し相手になってもらった。もっぱら彼は聞き役だ。日々のつたない失敗やささやかな進歩。「やりたいこと」はまだ見えず、どこに向かうか分からない自分の人生の地図は白紙という不安。とりとめのない私の話に、彼は静かに耳を傾け、いつも最後にこう言った。
「人にはそれぞれの役割があるさ。」
 程なく短い任用期間を終え、私は彼といた場所を離れた。年末の慌ただしさの中で次の職場へと向かったので、彼と別れを惜しむ時はなかったが、彼の言葉はいつもどこかで私を励まし続けてくれた。
 その後長い勤めの明け暮れを経て、あの頃白紙だった地図には自分なりの道が書き込まれていった。地図もそろそろ仕上げにかかろうかという頃、偶然私は彼といた場所を訪ねる機会を得た。彼はまだそこに居るのだろうか?建物は新しくなり様子が変わったと聞く。もしかすると彼も去っているのではないか?
 ためらいながらも訪ねると、はたして彼の姿はそこにあった。一新された周囲の景色に決して引けをととらず、むしろ前以上に堂々とした雄姿に見える。かつての友が立派になっているのは何より誇らしく嬉しい。彼をとり囲む子ども達の歓声もあの頃と同じだ。私は彼に呼びかける。
「幸せそうだね。」
「ありがとう。君は?」
 彼の問いかけに、少し考えそして答えた。
「もちろん。」
 それから時折に彼のもとを訪ねては、いろいろな話をした。別れてからの旅の数々。その途中の様々な出会い。知り得たいくつもの喜びや哀しみ。彼は相変わらず静かに聞いてくれる。その目は子ども達に向けられる時と同じように優しい。
 彼はずっと待っていてくれる。変わらない強さと変われない哀しさを抱えながら、もう帰ってこない仲間やかつての友だち、そしてこれからの友だちも。いつかすべての「役割」が終わったら彼に報告に行こう。その時に褒めてもらえるように、しっかり地図を仕上げよう。
 彼は恐竜。京山の麓のサイピア・太陽の丘公園で、長い首で空の彼方を見上げながら、今日も友だちが来るのを待っている。

現代詩短歌俳句川柳随筆目次
ザ・リット・シティミュージアム