岡山市民の文芸
随筆 -第53回(令和3年度)-


かみかくし 大森 博已


 その日、夫が、名古屋の「味噌煮込みうどん」を食べようといいだした。
 食欲をそそるパッケージの写真ではなく、消費期限が近づいていることに気付いたからである。ならば、といろどりやバランスを考えつつ、ニンジンや椎茸、カマボコ、たまご、などを冷蔵庫から取り出した。それらを見て、夫は牛肉とネギを忘れるな、という。あわてて冷凍していた赤身の牛肉を電子レンジに入れ、解凍スイッチを押す。
 そこまで準備をしたところで、屋外に保存しているネギを取りに出た。段取りの悪さに我ながらあきれつ
つ、農家さんからいただいた自慢のネギの束の中から何本か選んだ。
 ようやく材料が揃ったところで小さな鍋を二つ用意した。火の通りにくい野菜はあらかじめ入れ、沸騰してきたところに生うどんを投入する。説明書通り、うどんが半ば茹だったところに残りの具材を入れる。
「よし!牛肉だ」と振り返ったところ、あるはずのものがなかった。解凍した二百グラムの肉が忽然と消えていたのである。
 そこに夫がやってきた。
「置いていたはずのお肉が消えたのよ。カマボコ多めでいい?」
 さりげなく聞いたが納得してくれない。そして、本当に牛肉があったのか、と疑う。そりゃそうだ。わたしだって疑いたくなる。言い訳も小声だ。
「固そうな赤身のお肉だわ、と解凍したんだから…。ピーちゃんかなぁ」
 ピーちゃん、とは四歳の雄の飼い猫である。それまでに、何度も窃盗未遂事件おこしている。かつお節パックなど不用意に置こうものなら、くわえ去る。味付け海苔も油断禁物だ。ネギを取りに外に出た隙にネコババしたのだろうか。ただ、そういう時は、どこか後ろめたい表情であり、ペロペロと舌なめずりをし、念入りな毛づくろいをしている。ところが、そんな素振りは見せていない。
 神隠し?
 それでも、つくりかけのうどんは完成させなければならない。火加減を調整しつつ、猫が引きずりこみそうな場所をのぞきまわる。赤い牛肉はマボロシだったのだろうか…。うろたえる飼い主を尻目に主犯とめぼしをつけている猫はくつろいでいる。一匹には多すぎる分量だ。共謀犯もいるはずだ。犯人だとすると、猫たちはアカデミー賞ものの名演技である。あきらめかけていたとき
「あった!」
夫が声をあげた。ラップに包まれたまま、電子レンジの横のすき間に落ちていたのだ。
 猫の歯型も爪痕もついていなかった。あやうく冤罪をまねき、ゴハン抜きの刑に処するところだった。詫びる飼い主に猫は知らん顔だ。理不尽な疑いを辛がる様子もない。
 てんでに丸まっている姿を見ながら、いつもより静かにすすったうどんは、すっかり煮詰まっていた。


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