岡山市民の文芸
随筆 -第53回(令和3年度)-


きぼう 西﨑 良子


 「きぼう」を観ました。国際宇宙ステーションISSの「きぼう」です。その瞬間を、うろうろ、そわそわ待ち、ドキドキ夜空を見上げたのは、二十四年前のヘールポップ彗星以来のことでした。
 「きぼう」が六月一日の夜に、日本上空を通過することを知ったのは、前日のテレビニュースでした。アナウンサーは、この地区なら何時何分、この方向にと、詳しく伝えていた。そして、その「きぼう」には、日本人宇宙飛行士の星出さんが、ISS船長として搭乗している、ということも。
 天候を心配していたが、当日は、朝からよく晴れていた。岡山で観ることの出来る時間は、二十時五十一分だ。何度も、時間と方角を確認して、日の暮れるのを待った。
 懐中電灯だけ持って、二十時二十分に出発した。五、六分歩いて目的地に到着。ここは、草だらけの狭い空間だが、空を見上げる場所。誰も知らない私だけの否、私と愛犬クロだけの秘密の場所なのだ。クロは、もういないが、ここでヘールポップ彗星の感動を共有した。
 初めて観る青く美しい彗星に、思わず「おお」と、クロを抱き寄せた遠い日。一九九七年四月の、夜明け前のことだ。
 五分前、あと五分。思い出に浸っている時間はない。日没の遅い六月だが、周囲の薄明も消え、星を待つばかりの空の色だ。息を止め、北東の空を凝視する。見逃しはないかと、まばたきすら躊躇してしまう。風が、遠慮がちに通り過ぎて行った。
 予定の時刻は、既に過ぎようとしているが、何も見えない。期待に満ちた夜空は、尚も無言を貫いている。大切な一秒が、心臓の音に重なりながら、どんどん消えてゆく。高まる期待が、時間と共に溜息に変わってゆく。それでも諦め切れずに、夜空を見上げ続けた。
 登場に前触れはなかった。「きぼう」は、突然に現れた。小さな光の点が、次第に近づくのをイメージしていた私は、慌てて足下がふらついた。転んではならぬ、眼を離してはならぬ。見逃してなるものかと、体勢を立て直して光を追った。
 想像よりも大きな星の輝きだ。北東の空に突如現れた「きぼう」は、ゆっくりと天空を移動している。あの光の中から、星出さんが地球を見守っているのだ。思わず背伸びして手を振った。見知らぬ人にも「星出さんが乗っているのですよー」と叫びたかった。
 至福の時とは、束の間のことを言うのだろうか。突然現れた「きぼう」は、突然に消えた。息を止めて追っていた光が、中天で消えてしまった。雲に隠れたのだろうと、再び現れるのを待つこと五分、十分…。しかし夜空は、そのまま終了してしまったのだ。 遠去かる「きぼう」を見送るはずだったが…。
 余韻残る夜空から地上に戻るには、深呼吸と、少しだけ時間が必要だった。
 さあクロよ、そろそろお家に帰ろうか。


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