岡山市民の文芸
随筆 -第53回(令和3年度)-


花束 久山 順子


 誰の目も届かない奥まった所に庭がある。紫陽花が色づき出す頃になると、この美しい花を一人で眺めるのはもったいないと、私の血が騒ぎ出す。そこで通りに面した家の軒先を借りて、自由に持って帰れる花束を、バケツに入れて置く案を思いついた。もう、20年は続いているだろうか。紫陽花の咲く頃、一ヶ月間ほど現れる、風物詩のようなもの。
 このところの、何ともやるせないコロナの憂鬱を、少しでもこの花束で、癒やしてもらえたらとの思いを込めて、今年のキャッチコピー『コロナ禍、お花をどうぞ』の言葉を添えた札をバケツに掛けた。一日20束ほどの花束。
 始めた頃は道を行く人の目に止まって、足を止めても、このご時世、こんな奇特、黙って貰って行ってもいいのだろうかと思う、半信半疑の朝の三文の得の遭遇であったが、今では施主不明の花束にも馴れ、紫陽花の花束のバケツの季節到来を、心待ちにしているファンが出来たことは、最上の喜びである。
 早朝の涼しい内に、庭に出る。花束になりそうな咲き具合の紫陽花と、その組み合わせの花材を調達して、少しでも長持ちするように、心を込めて水揚げをする。珍しさから購入したものや挿し木で増やした紫陽花、種類も色も様々。ギボウシ、ホタルブクロ、縞ススキ、カキツツバタ、半夏生、藪カンゾウなどを組み合わせて、私流の感性で作る花束に、同じものは一つもない。どんな人に貰われるのかなと、わくわくしながら花束を作る。
 路地奥の炊事場の窓から、置いてある花束が少しだけ見える。花の好みはみんな違っている上に、持って行くときの行動が、また面白い。正直に一つの人。気に入ったものを手に持ち、次を手にしてどちらかに決め難くて、両方とも持って行く人。あの人は3束も持って行ったが、友だちに上げる分よね。障子に目があるわけじゃなし、私もズルするかも。美し過ぎる花束の罪にしておこう。 
 もう、仕事のない独居老人ではあっても、早朝の2時間は貴重な時間である。「よう、そんなアホらしいことを、するんじゃぁ」と言う人、「そんな、間があったら、寝てる方間が、得」と言う人。今日も誰かが持って行って下さって、空になったバケツを提げて帰る快感、人それぞれ。「ありがとう」のメモが添えてあったりすれば、また頑張れる。
 81歳の健康体、花束に出来る花が咲いて、貰って下さる人がいて、軒先を貸してもらえるから成り立つ、ありがたい「花バケツ」なのである。去年は663束、今年は801の花束を置くことが出来た。今年もめでたく無事に終了。
 酷暑が続き、花たちは水を欲しがる。アンタらより老婆の命の方が大切よと思うが、美しく咲いた花だけが花ではなく、来年の花の準備を、花たちはもう、すでに始めている。私も老体にムチ打って、水遣りと草抜きに励んでいる。気力と体力が要る花束作り、来年も、道行く人々に喜んでもらえたら、いいなぁ。来年の話をしたら、鬼が笑うとか。


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