岡山市民の文芸
随筆 -第51回(令和元年度)-


猫に備前焼 大森 博巳


 うちの猫は備前焼の器を使っている。飲み水を入れるのだ。猫のために奮発した。
 そもそも、猫の特性を知らず飼い始めた。呼んでも来ない。シッポの先でわずかに合図をよこすだけだ。聞こえていても、動かない。飼い主の要望は一蹴される。ある時、ニボシで誘うと飛んできた。袋を開く気配さえ察知する。ガサガサと開封する音を立てるだけで、どこからともなく現れる。ただ、猫を騙す禁じ手を乱用したのは失敗だった。呼び寄せるためには本物のニボシをやらざるをえなくなった。まずいことは、尿路結石を発症させてから分かった。獣医師に
 「ニボシは厳禁。再発予防のため療法食だけを与えて、できるだけ水分をとらせましょう」
と言われた。だが、健康管理に頓着があるとは思えない猫である。どうやって大量の水を飲ませるのだ?愛猫家は計量カップで飲む水の量まで把握しているのだろうか。初心者マーク付きの真面目な飼い主は悩んだ。
 相手は猫だ。策をろうしても無駄だろう。さじを投げかけたそのときだった。四半世紀も前のことを思い出した。碧い目の備前焼作家が愛犬のために立派な平皿を使っていたのだ。ドックフードがこんもり盛られた光景から閃いた。
 犬に使ってよいのだから、猫に使って何が悪い。それに、古来より水を腐らせないといわれる備前焼だ。それが本当ならば水はおいしくなるはずだ。然らば、猫がたっぷり水を飲むかもしれないではないか。
 運よく「備前焼まつり」が近づいていた。履きなれた靴で、ともかく向かった。そこで見つけたのが、ただいま愛用中の切立鉢だ。出会った瞬間、安定感抜群の姿に目が釘付けになった。本来は漬物などが入れられる「香物入れ」だ。けれど、径が十二センチほどで縁がほぼ垂直で、高台を含めても五センチほどの高さは猫にぴったりだった。
 戦利品を持ち帰り、ステンレスのボウルと交換した。猫は見慣れぬ土色の物体を丹念にかぎまわり、ためすように一口二口飲んだ。それから、ひれ伏すかのようにしゃがみこみ、その水を味わい始めた。飼い主の思い通りになったためしはない。それなのに、備前焼はあっさりと猫を懐柔してしまった。
 摩訶不思議なチカラを持つこの器を毎日洗う。そして大切に水を入れ替える。朝から夕方まで置いていても、水は透き通っている。
 今日もリズムよく、ピチャピチャピチャピチャという音が響いてくる。器の中には丸い波紋が広がっていく。その後は決まって勢いよく音を立てて放尿する。心地よい音と愉快で爽快な音を聞く度に、ほくそ笑む。
 おろかな飼い主は、猫と備前焼の話をどこでも自画自賛する。自制心を、どこかに置き忘れてきたのだろうか。いや、違う。自制心などというものを持っているならば、猫と暮らすことは出来ないのである。


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