岡山市民の文芸
随筆 -第49回(平成29年度)-


鍋 を 磨 く 江国 千春


 物にも心がある、と感じたことはあまりない。電気製品は年数がたてば買い替える。服はサイズが合わなくなれば処分する。
 よく使っていた小さめの片手鍋を焦がしてしまった。重くて使いにくいので、不燃ごみに出して安くて軽い鍋を買おうと思っていた。
 そんな時、田舎に住む母が遊びに来た。いつも畑仕事をしているせいもあるのだろうか。久しぶりに会う大柄な母は背中が丸くなり、小さくなった。手料理をたくさんご馳走した後しばらく話をした。母は、「お茶碗ぐらい洗っとくわ」と言って、洗い場に立った。私は母に任せて食卓に座っていた。「この鍋、真っ黒じゃが」という声がした。しまった、隠しておけばよかった、と後悔した。母は「外国製で五層構造になっているから高かったのに」と言って、たわしでこすり始めた。「えっ、そうだったの?」私は捨てようと思っていた自分の心を恥じた。
 私が子どもの頃、母はよく割引品を買ってきては「これ安かったんよ」と喜んで見せてくれた。その鍋も安物だと思い込んでいた。
 結婚前、仕事で忙しかった私の代わりに、母は日用品を少しづつ揃えてくれた。あの鍋は五個セットの中の一つだった。特大の深い両手鍋は四人家族のカレーやおでんを作るのに重宝した。浅い両手鍋で鍋料理を作り家族で囲んだ。熱伝導がいいのか、すぐにお湯が沸騰して冷めにくい。大きめの浅い片手鍋は魚の煮つけ用だ。ゆっくり冷めるせいか、味がよくしみる。三十年使っていても、取っ手が壊れていない。節約家だった母が、私のために高価な鍋のセットを買ってくれていたことを、今になって知る。
 母が帰った翌日、磨き粉を買い、たわしで磨いた。おこげはすぐには取れなかったが、毎日磨いていると、だんだん底が見えてきた。
 この話を知り合いのSさんに話した。彼女は母よりも三歳年上の八一歳。白い髪をきっちりと結って小柄な体に和服をまとい、背筋を伸ばしてさっそうと歩く。身に着けている物は、ほとんどが三十年以上も昔の物だという。着物や服はサイズを直したり、裏布を新しいものに替えながら大事に着ている。帯をほどいてバッグやお琴のカバーにすることもある。お気に入りのピンクのパンプスは底を修理して表面を磨いてもらい真新しくなったと喜んでいた。彼女は優しく微笑みながら言った。「そういう時はな、『お母さん、ありがとう』って言いながら感謝して磨くんよ」
 彼女の言葉を聞いて、はっとした。これが物にも心がある、ということなのだ。そういえば、きれい好きの母は実家でも良く鍋を磨いていた。父とケンカした時は泣きながら磨いていた。
「お母さん、ありがとう」と 言いながら磨かれた鍋は、見違えるように輝きを取り戻した。
 磨いているうちに、私の心の中の雑念や屈託がいつの間にか消えていくのを感じた。






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