岡山市民の文芸
随筆 -第47回(平成27年度)-


辞書 長 櫓 潔 美



 今夜こそ友へ手紙の返事を書こうと、万年筆と便箋、電子辞書を用意して書き始めた。途中あやふやな漢字があったので辞書で調べようとしてボタンを押したが、何度押しても辞書の画面は暗いまま。どうやら電池切れらしい。今まで電池切れになりそうな時は予告があったのに、今回は突然使えなくなってしまった。あいにく電池の買い置きはない。思案の末、本棚から紙の辞書を持ち出した。
 紙の辞書を使うのは何年ぶりだろう。十年近く前、資格試験の勉強をするのに百科事典や現代用語辞典が必要になった。その時講師から「便利ですよ」と勧められたのが電子辞書であった。コンパクトな一冊の中に各種の膨大な知識・情報が内臓された電子辞書は、当時の私には「これぞ文明の利器」だった。老眼になりかけていた私は画面の大きい物を購入したので、文字も細部まではっきり見える。それ以後は英会話のレッスンの時間までも、もっぱら電子辞書を愛用してきた。
 久しぶりに使い込んだ紙の辞書をめくってみると、何だか懐かしい手触り。そして電子辞書にはない広がりや深さを感じた。電子辞書では検索する語だけの情報しか見えないが、紙の辞書は探す語に辿り着くまで色んな言葉に巡り合える。言葉の森を散策しているような気分になる。紙の辞書のよさを再認識した夜だった。
 思えば最初に辞書をひくことの面白さを教えてくれたのは、昨年九月に亡くなった父だった。茶の間にまだテレビがなかった時代、特に日が早く暮れる冬期は、夕食後家族だんらんの時間がたっぷりあった。平生は寡黙な父であったが晩酌でアルコールが入ると饒舌になり、丸い石油ストーブを囲んで自分の子供時代や歴史上の人物のこぼれ話、出張や旅行で訪れた土地のことなどを語ってくれた。そんなひととき、同じ語でも使う文脈によって意味が異なることや、音は同じでも意味によってそれを表わす漢字は色々あるということを、わかりやすい例をあげて教えてもくれた。そしてまだ小学校で辞書について学習する前に、一冊の国語辞典をプレゼントしてくれたのだった。私はその辞書に触った時の新鮮な感動を今も鮮明に思い出す。
 また、父が亡くなって私が初めて手にした本が三浦しをん著の『舟を編む』だった。そこには辞書を「言葉の海を渡る舟」にたとえ、気の遠くなるような年月をかけて膨大な言葉の数々と真摯に取り組む人々の姿が描かれており、私の心を打った。辞書に用いられた紙一枚にしても、何度も試行錯誤を重ねた末の選り抜きの一枚だったのだ。日本語一語一語に対する愛情とひたむきな努力、そして辞書作りにかける情熱は、私の想像をはるかに超えていた。読後、お酒と本をこよなく愛していた父に、この本を読ませたかったなあと思った。
 もうすぐ初盆。仏様になって帰って来る父と、ゆっくり辞書の話もしよう。





現代詩短歌俳句川柳随筆目次
ザ・リット・シティミュージアム