岡山市民の文芸
随筆 -第46回(平成26年度)-


いなくなった老犬 金光 章


 毎日、歩数計をポケットに忍ばせ、一万二千歩歩くことを日課としている。天候や寒暖によって、歩きたくない日もないわけではないが、それでも「健康だからこそ歩ける。これは有難いことなのだ」と自分に言い聞かせて、毎日ノルマを消化している。
 毎日のこととはいえ、歩くコースを決めているわけではない。東方向は神社。南は学校。西へ向かって川を渡れば繁華街。北は病院とおおよその目標物はあるものの、出発点たる我が家があるのは市街の住宅地だから、いずれコースの大半は住宅街になる。
 通り過ぎる住宅と庭から覗く四季の花は脳内の地図にある。梅、桜、金木犀、今なら百日紅、芙蓉。鉢を並べる家もある。花時を見計らって出かけ、確認すると帰って家の者に報告する。年々歳々同じように咲き、散ってゆくのだが、突然枯れる植物もあって、他人様のものながら頭が痛くなる。
 住宅街では町内会の掲示板が目に付く。目に付くからには他地区の住人が読んでも罪にはなるまい。似たような家が並んでいても、属する町内会によって掲示内容は異なる。学区の運動会とか赤い羽根募金のポスター等は共通だが、子供会の連絡とか、盆踊り、詩吟、グランドゴルフの稽古日等々は、住む町内によって様々で、活動に格差があるのがわかる。
 そんなお知らせに混じって先日、便箋に書かれた「お礼」なる一枚が目に付いた。近づいて本文を読むと概略、
「皆様に御心配をおかけしました老犬○○は○日、バス停近くの路端にて遺体で発見されました。ご心配をおかけし、有難うございました。○○町○番地○○」
とあった。掲示から目を離した時、○○なる老犬が甦った。遡ること一ヶ月ほど前、白い犬の写真と共に「老犬を探しています」と書かれたコピー用紙が、この掲示板に限らず、方々の電柱や壁に張られていた。見るからに老犬で、飼い主の悲痛な叫びが窺えた。
 そうかあの犬はだめだったのか。面識こそないものの飼い主の無念さが思われた。同時にいつか読んだ、死を目前にした飼い犬が家を出て行ったエッセイを思い出した。その文章は、死期を察した老犬が飼い主に迷惑を掛けないように死出の旅を選んだのだろうと結ばれていた。闘争に敗れた猿山のリーダーは、自分から群れを去ると聞いたこともある。死期を悟った生き物は、周りに迷惑を掛けないよう、自分を処していくものらしい。
 近ごろ家族葬という葬儀の方式がとられることがある。先日の町内のD夫人の別れもそうだった。通りで会えば気候の挨拶を交わす程度の親しさだったが、入院されたと聞いていた。それが急に訃報に接し、あまつさえ、「故人の固い意志で、既に葬儀は終りました」と聞かされた。動物も人間も静かに終りを迎えるのが今風なのか。人の場合、最期くらい周りに多少の迷惑をかけても、けじめだけはつけたいと思うが違うだろうか。



現代詩短歌俳句川柳随筆目次
ザ・リット・シティミュージアム