岡山市民の文芸
随筆 -第44回(平成24年度)-


遊ぶ 山本 照子


 二〇〇六年に亡くなられた古代漢字学者、白川静氏の説によると「遊」の本来の意味は、神様が宿りやすいように、遊べるように、その人が自由な気持ちでいることだという。
 私は、毎朝のようにスポーツ広場に出向いて、グランドゴルフを楽しむ。
 まずは、五十メートル先に置かれたホールポストをじっと見つめる。五秒、十秒。私の脳裏にホールポストの、位置が、気配が、その匂いさえもが刻まれてゆく。次には、スタートマットの上に置かれたオレンジ色のボールを、脳裏に焼きつけたホールポストに向かって打たねばならない。ボールからは、絶対に目をはなすことなく。
 その時には、間近に聞こえていた救急車の音も、晩の献立は何にしようかとの雑念もすべて消え去って、私の中に、ホールポストだけが広がってゆく。きっとグランドゴルフの神様が遊びにきてくれたのだろう。
「神様、クラブの向きはこれでええかなあ」「よかろう」それではと、エーイとばかりに打ったボールは、ホールポストから大きくはずれてしまう。遊びにきてくれていた神様は「エヘヘ」と頭をかきながら、早々に退散してしまった。
 梅雨の晴れ間の昼下がり、ささいなことで夫とケンカをした私は、重苦しい空気から逃げるように、渋川海岸へとゆく。波が押し寄せてくる。おびただしい数の生き物のごとく、身をくねらせながら、絶え間なく。
 砂の上に座り込んで、波の音と私の息を重ねてみる。「ザブーンザブーン。ハーウー」「ハーウー。ザブーン」なんだか伸びやかで風通しのよい気持ちになってくる。海の神様が、私に乗り移ってきたに違いない。「神様、さっきのケンカはお父ちゃんが悪いんよなあ」「そうじゃなあ」「私の方が悪いんかなあ」「そうじゃなあ」
 私の所に遊びにきてくれる神様は、チャランポランである。
 還暦を迎える頃までは、神に無関心だった。そんな私が、何かの本で白川静氏の「遊」の意味を目にした時は、ノートに書きうつした。年を重ねて、色々なことを経験しているうちに、神は、ここにもあそこにも、いるのかもしれないと感じ始めたのだ。かなり気まぐれな神々だろうとは思うのだが。
 かなうものなら、私の所に遊びにきてくれる神様は、人間臭さと、純粋無垢な面を兼ね備えた、寅さんのような神様がありがたい。私の中で遊んでいる神様と、お酒を酌み交わしながら、四方山話に花を咲かす。そのうち、生きていることがしみじみとありがたくなってくる。こんなひとときを持つことができたら、何と幸せなことだろう。
 神々を、信じ、敬い、共に暮らして「遊」と言う漢字を生みだした古代の中国の人々。そんな人々の暮らしに思いを馳せる時、私はつかの間、浮世のわずらわしさから解放されて自由で豊かな気持ちになれるのである。

    

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