岡山市民の文芸
随筆 -第44回(平成24年度)-


ネジバナ 髙塚 節子


梅雨を迎えると、庭の苔の中から、ネジバナの花が咲く。今年は、ひょっとして絶えたかなあとの心配は杞憂だった。緑の小さな茎がのぞき、やがて、らせん状の茎に同じようにくるくる回って濃いピンク色の小さな鐘状の花が咲いてきた。とても可愛いく、その姿に見とれてしまう。
 そして、何か郷愁にかられる。幼い頃、口にしたピンク色の小さな金平糖を思い出すのだ。同時に、去年九十五才で亡くなった母の姿も重なってくる。
 父は朝鮮総督府で働いていた。私は朝鮮成鏡南道端川で生まれた。「タンセン」の言葉は妙に覚えている。敗戦を迎え、五才の時、母と弟と一緒に日本に帰る事になった。父は遅れて帰った。いわゆる引き揚げ者なのだ。幼い故、その時の詳しい事は知るよしも無い。途切れ途切れに、ある部分だけが、頭に焼きついている。帰国時の母の姿が脳裏に深く残っている。背中にリュックを負い、前に弟を抱き、ひもでゆわえている姿を。そして、小さなリュックを背負った私は、馬車の広い荷台に乗っていた。その時、乾パンの配給があった。ピンク色の金平糖が袋の下にあった。僅か数個のピンク色の金平糖は、幼い心に輝いた。その輝きは今も私の心にある。
 講堂のような所で、やかんでご飯を炊いた。大きな船に乗り、甲板で大勢の人たちと寝た。日本の仙崎港に着いたのだろうか。船から桟橋に架けられた大変長くて狭い木の板を渡るのに、波うつ海を下に大変恐くてやっと渡れた安堵感も強く印象に残っている。母も、おびえて立ちすくむ私を見て、不安だったろう。そして、我先きにと汽車に窓から乗った。母の顔が黒くすすけていた。こうして敗戦後の日本の生活が始まった。
 結婚し、共働きし、五十五才で退職した。父が死ぬ前まで病院に寝泊りし看護した。残された独り暮らしの母のもとへ通った。その後、母は施設へ入所した。施設へ度々通った。この間、父・母は、戦争の話は一切しなかった。母は、引き揚げ後の辛い話も全く口にしなかった。その母も、最後は認知症となった。私の顔もわからないようだった。昼ごはんを食べさせに、前より増して施設へ通った。
 「後悔先に立たず」というが、私が今の年になって、初めて思うようになった。母は、見合い結婚で朝鮮へ渡った。結婚式で初めて見た夫の顔、両親との別れ、引き揚げ時の苦労。引き揚げ後、不慣れな農作業、姑からの辛い仕打ち、どんなに辛かっただろう。母が元気な間、色々、しみじみと聞いてあげられなかった自分のうかつさに、自分を責めるこの頃だ。
 今朝も庭にたたずみ、背丈が伸びたネジバナの花を見た。きらきら光る金平糖が浮かんできた。そして、きれいにお化粧をしてもらった納棺の母の顔が、まぶたに映り、様々な母との想い出がよみがえり、又、涙が出た。


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