岡山市民の文芸
随筆 -第43回(平成23年度)-


深海魚が笑った 高山 秋津


 娘の頬は固く、唇はキッと結ばれたままだ。ここ数日間、緊張と不安で、満足に食べ物を口にしていない。
 高校合格発表会場に向かう車の中だ。
 娘の心臓の音が聞こえる。それが、ハンドルを握る私の胸にまで伝わってくる。
 一言も発しない娘。同乗しているのは、先日、K大、W大の合格通知を次々と手にした息子。我が家にやって来た二分の一の「春」が、果たしてきょう、残りの半分を呼び寄せ、春を軌道に乗せることができるのか。
 A校に着いた。数週間前、息子の卒業式で訪れたばかりなのに、何だか未知の場所のように思える。駐車スペースを探している間に、はや、先に降りて見終えた娘の姿が近づいてくる。依然張りつめた空気を身にまとったままだ。結果は― 結果は―
 両手の人差指を交叉させて、娘は顔の前で小さな×印を作った。泣き笑いの顔だった。
 一週間が過ぎた。娘の心は、あの日からずっと蹲ったままだ。光を拒み、深い闇を抱え込んだ、海底に生きる魚のように。
 仲の良い友が皆、志望校合格という事実が、更に彼女を打ちのめした。私の慰めの言葉など、何の役にも立ちはしない。
 この日も、私が外出先から帰宅すると、家の中は真っ暗だった。夫はまだ帰宅せず、息子は友達と母校へ行ったきり。
 娘はパジャマのままで炬達に潜って眠っていた。昼食を摂った形跡はない。
 蒲団から漆黒の髪が流れ出していた。豊かに艶やかに輝く髪の美しさに、ふと十五歳という年齢を思う。まだ青く、まだ幼い。幼いが、はや挫折という言葉を知ってしまった。
 目覚めた娘に、「まるで病人じゃないの」と言うと、「ウン」と、か細い声で応える。部屋中に陰鬱な空気が漂っていて、息をするのも苦しい。奥の一部屋には、息子の上京準備の品々が積み重ねられ、今か今かと旅立ちの日を待っている。小さなスプーンから本箱まで、電化製品は東京で揃えるにしても、あれも持たせたい、これも、と思うと、夥しい量になった。くっきり「明」と「暗」に分かれてしまった二つの部屋を、私は複雑な思いで往き来している。
 それから数日経ったある日、娘は久しぶりの長電話をした。いつも通りの娘の声だ。
 「発表の後、お互いに電話し合おうって約束しとったから。あっちからは掛けにくいもん」
 友達は見事に合格していた。
 「発表の後」という「後」には、何日も要してしまったけれど、友との約束が一つの力となったのだろう。自分からダイヤルした子を誇らしく感じ、誉めてやりたいと言葉を探している内に、言葉より先に涙がこぼれた。
 母親の涙を見た深海魚が笑っている。海面に浮かび上がって笑っている。
 笑顔が春の光にぼやけた。

 

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