岡山市民の文芸
随筆 -第40回(平成20年度)-


いやはやなんとも 三宅 由里子


 遅いっ!
 今日はM塾に行く日だ。部活はとっくに済んでいるのだから、いい加減に帰ってこないと夕食をとる時間がなくなる。すぐに食べられるよう、鰆は焼いてある、みそ汁はみそを溶いてある。ここまでサービスをしてやっているのに、ただただ、遅いっ!
 そこへ家の電話が鳴った。息子の携帯の表示が出た。なんだか半泣きのような声だ。
「エナメル落として、捜しとるんじゃ……」
 エナメルとは、どっさりある教材を入れるエナメル製の大きな鞄のことだ。それを積んで高校生が西に東に、南に北に自転車を漕ぐ姿は、毎日のように目に入る。ひもで縛ったのがつい緩かったらしい。なんと家の近くまで帰ってきて、後ろの荷台から消えていることに気づいたそうな。
「どこで落としてしもうたんか、さっぱりわからんのじゃ。もうちょっとあっちこっち、見てみるから」
 夏とはいえども日没を迎え薄暗い。子どもの声はもっと暗い。M塾は休めばいいから気をつけて、と受話器を置いた時だ。そばにあった携帯電話が明るく光る。ぱかっと開くと、彼の通う高校から電話だ。
「Tくんのお母さんでいらっしゃいますか」
「はい、鞄ですか」
 言うべき挨拶を抜きにして、「鞄ですか」と、先生に飛びついてしまった。
 のうかいセンターの方が拾って預かってくださっているので、受け取りに行くよう息子に伝えてほしいと言われた。
 のうかいセンターは農機具改良センターの略だというのくらい、勘の鋭い私は即わかった。さすがだ。高校の先は農地が広がっていると聞いていたもの。優れた農機具は農業に欠かせないはず。でも、どこだったやら。
「……のうかいセンターの先生が、学校へご連絡くださいましてね……」
 はっ、まだ電話は続いているではないか。私が勝手に開設していた最先端技術の農改センターは、「先生」という言葉で一気に吹っ飛んだ。恥を承知で尋ねる。
「のうかいセンターって、塾でしょうか」
「塾ですよ」
 あらま。確かに通学途中にある塾だ。
 お世話になったその塾と学校それぞれに丁重にお礼を申しあげ、私は電話を終えた。

 あの子が小学校の三年生のころのこと。下校中に蛇を友達と追いかけていくうちに、手に持っていた習字道具が邪魔になり、その辺に置きっ放しにして忘れて帰ってきたことがある。ご近所の方が小学校へ、落とし物として届けてくださった。今度は鞄。彼がうっかり人間なのは、電話の話を勘違いするような私からの遺伝子の、仕業かもしれない。

 帰り着いた子どもは、風味が飛んだみそ汁を、人心地ついた風情でかき込んでいた。

 

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