岡山市民の文芸
随筆 −第38回(平成18年度)−


走れ!ひまわり号 岡 由美子


 母の部屋から、居間の本棚へと移ってきた若草色の冊子。「倉敷ひまわり号記録集」というタイトルの表紙が、こちらを向いて微笑んでいる。
 満開の枝垂れ梅に見送られながら、母が旅立ってから十二年になる。十三回忌を三月に控え、家中の大片付けに取りかかった。今まで、母の思い出のしみこんだ品々を処分するのはためらわれ、なかなか踏み切れずにいたのだが、今回の法事を節目に、思い切って整理することに決めたのである。
 まず取りかかったのは、南向きの母の部屋。晩秋の穏やかな陽が差し込む窓辺で初めて母の遺品の一つひとつを手に取った。きれいに折り畳んだ包装紙、きちりと巻いた荷紐からも、つましく生きた母の日常が伝わってくる。
 生命を閉じた病院での、荷物をまとめた箱を開けた時、ふと目に留まったものがあった。赤い水引がはさまれた冊子である。そうっと頁を開いたとたん、瀬戸内の汐の香と、躍るような五月の光が私を包んだ。
 その頁は、耕三寺を散策する私たちの大写しの写真だった。車椅子で、うつむき加減に微笑む母。両側には、ボランティアの男性と私。背後から、観音像が、慈愛に満ちた眼差しで私たちを見下ろしている。あの日、あの時が、そのままとじこめられた思い出の頁。
 当時、母は持病の慢性関節リウマチが悪化し、寝たきりの状態で、入院生活を強いられていた。そんな母に、ある日看護婦さんから思いもかけない誘いがかかった。
「ひまわり号で、日帰り旅行に行きましょう。」
 一人では、歩くことも、食べることも、排泄もままならない母。
わが耳を疑う私たちに、看護婦さんは屈託のない声で、言葉を続けた。
「なんにも心配いりませんよ。大勢のボランティアが手足になってくださいますからね。皆で瀬戸田への旅を楽しみましょうね!」
 母を乗せた車が駅に着くや否や、母は軽々と車椅子に乗せられ、いとも簡単に車中の人となった。数十年ぶりの列車と船の旅。少女に戻った母は、目を輝かせ、大声で笑い、歓声をあげた。コバルトブルーの海と新緑に染まる瀬戸田の町で、七百の笑顔がはじけた。全ての日程を終え、ボランティアの方との別れ際に、母の発した言葉を覚えている。
「今日のご親切は、忘れませんからな。」
その旅から二年後に、母は逝った。旅の思い出を手繰り寄せようと、何度も記録集を紐解いた母。表紙の皺がそれを物語る。次の旅への望みが、つらい闘病生活の支えとなっていたのは確かである。長年、そのままにしていたことを詫びつつ、冊子を居間の本棚に納めた。透明なセロハンカバーをつけて−。
 ガラス越しに、あの旅の意義を静かに語りかける記録集。心の底に、切なる折りを込める。来年も、一人でも多くの患者達の夢と希望を乗せ、ひまわり号が走りますように、と。



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