岡山市民の文芸
随筆 −第38回(平成18年度)−


姉の黒髪 高山 秋津


 姉とは六つ違いだ。私が小学一年生の時、姉は中学一年生。この時代の差は大きい。体格も知恵も違う。それでも、きょうだい喧嘩は勃発した。掴み合いになると必ず出る私の技がある。姉の髪の毛を力一杯引っ張るのだ。指にからみつかせ、ギュット握って離さない。涙をじんわり浮かべて堪える姉は、一本の静かな木だ。そして、私は、その幹でギャーギャーと騒ぎ立てる蝉のようなものだ。仲裁に入った母が、私の右手をほどけば、即座に左手で掴む。ほとほと困り果てたそうだ。
 姉の、漆黒の髪の毛の感触は、不思議と今も、思い出の襞の中にたたみ込まれている。
 姉は現在、五十歳。二十数年前、まだ新婚の頃に右の乳房を癌で失い、そして今年、右の乳房にもメスが入った。
 「全部きれいに取れたと思いますがね(癌細胞の)面が、ちょっと気に入らんなあ」
術後の医師の言葉を耳にしてから、安堵と不安が、交互に、心の面積を占めた。
 薬の副作用で、姉の髪は、どんどん抜けていった。柔らかい布地の帽子をかぶっているが、端から少しのぞいた頭皮には、赤ちゃんの頭のように頼りない産毛が生えているだけだ。
 よほど強い薬なのだろう。その点滴の直後から、笑顔が消えていく。姉の心の空を、一体どんな厚い雲がおおうのか。清潔な糸で、日常を編んでいた時の姉とは、別人のようになってしまう。
 十二階の病室の空から見える景色が、私は好きだ。青々と広がった稲田が、風のたびに美しいうねりを見せる。サワサワという音まで運ばれてくるようだ。伸びゆく稲から、「いのち」という言葉が、眩しく照り返してくる。生きること、こうして生きているとゆうことは、何て尊いことなんだろう。
 しんとした長い廊下で、しばしば見舞客とすれ違うが、皆一様に伏し目がちで部屋へ吸い込まれていく。とびきりの笑顔を提げて、姉の扉を叩くこと、私は、そう決めた。
 ロビーでは、女性の会話が耳に入った。
「でも、あなたはいいわよ、乳癌だけなんだから」
乳癌だけ・・・それならば、姉も羨ましがられる立場にいるのだろうか。複雑な気持ちだ。
 大病院という巨大な船に、偶然乗り合わせた無数の人たち。毎日そこへ足を踏み入れながら、私は、随分いろいろなことを学んだ気がする。
 入院生活は数ヶ月に及んだ。
 待ちに待った退院の日、新しい水が光りながらコップに満ちてくるような思いで、私は姉を見る。病室の鏡に向かい、買ったばかりのカツラをかぶってはにかむように微笑む姉。
 いつか黒髪が元のように生え揃ったら、あの子供の頃のように、指にからみつかせ引っ張ってみたいものだ。姉は、また、静かな木になるだろうか。
 朝の光を浴びて、ますます大きく育った稲が波打っている。美しい、風の軌道だ。



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