岡山市民の文芸
随筆 −第37回(平成17年度)−


ニューフェイス 黒田 美恵子


 愛犬の散歩から、夫が足取りを弾ませ帰って来た。そして、童心いっぱいの顔で、
 「クワガタムシを、つかまえたぞ」
と言いながら、手に抱えた帽子の中の、小さな生き物を見せてくれ
た。大きく突き出した二本の角(大あご)。前足を一部失っているが、
心配はなさそう。初めて対面する著名な昆虫は、想像以上にかわいい。いつもなら、雑木林で遊んでいるはずなのに。この上ない小春日和に誘われ、遠出をしたのだろうか。帰り道を迷って、車道にふらり現われる−。
 窓辺に置かれた、新品の飼育ケース。樹皮を細かく砕いたおがくずを、ふかふかに敷きつめ、小石やのぼり木、それに青草を植え、まるで、ミニ雑木林だ。専用の黒蜜ゼリーは、気に入ったらしい。量がどんどん減っていく。体の色にも艶が出る。
 「少し太ったみたい」
と娘に言われる位、疲れ気味の体が生き生きしてきた。クワガタくんは、とても親しみやすい名前、『クワちゃん』が付けられた。わが家の居間は、私達と一緒に、親子の愛犬が寛ぐ。この団欒の輪に、ニューフェイス加わる。
 観察日記のページが増えるような日常。いろんな場面に笑みがこぼれる。ケースの側面に、ごっつんこして引っくり返り、仰向けのまま、暫くもがいていたり。手を貸し、起こしてあげることもしばしば。又、雨降りシーンは絵になる。この担当は、毎回夫である。
 「クワちゃん、夕立ちだよー」
霧吹きで、シュッ、シュッと降らせば、上体をそらし、バンザーイ、バンザーイの恰好を繰り返す。喜んでいるようでも、怒っているようでもあり。ケースをノックして、
 「元気かぁ」
と、いたずらっぽく話しかけるのは、息子。同じ地球上に住む仲間と思ったら、楽しい。情も移る。冬を越し、一回り逞しくなる。
 季節は緩やかに進み、雲のカーテンがあけられ、夏空が広がる。突然、クワちゃんに異変!ノコギリに似た大あごを×印にとじ、ゼリーも全く食べなくなり、反応がない。その横たわり方は、すべての機能が止まったかに見えた。慌てた。
 「クワちゃん、がんばれ」
と夫が励ます。一週間程過ぎる。もう寿命だったのだろうと諦めかけた時、正に奇蹟が起きた。何と、大あごをひろげ動いているでは。
 「ちょっと来てー、クワちゃん生きてる」私の声に、夕食途中の家族が居間へ。ケースを覗き、生命力の強さに、只々驚くばかり。元気を取り戻す姿は、人でも動物でも、小さな昆虫であっても嬉しいもの。幸福になれる。
 「あれは、夏バテだったのよ」
娘の見事なユーモアで、今迄の緊迫感も解け、一件落着する。
 あの日、好奇心旺盛な愛犬の目が捉えなかったら…。
 ニューフェイスは、大自然からの贈り物かもしれない。夏の太陽が、キラッと微笑む。



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