岡山市民の文芸
随筆 −第37回(平成17年度)−


シベの降る道 高山 秋津


 雨雲が広がっていたが、遠回りをして歩く。
 雨を確かめようと、手の平を差し出すと、小さい固い物が落ちてきた。シベだ。桜花を支えていた細い茎が、今、道を赤く染めている。見上げると一本の桜が、私を招くように枝を伸ばしていた。花の季節も終わって人の気配はなく、ただ静けさだけが桜の側にいた。
 この道を進むと、一軒の鮨屋があるはずだ。
 胸底がコトリと音を立てた。

 結婚間もない頃のこと、夫の両親と私の両親が、揃って我が家へ集まった。料理が不得手な私は、散らし鮨と茶碗蒸しをその店に注文、後は鰆の煮付けやフルーツサラダ…自分にできる精一杯のメニューを並べた。
 六つの笑顔に春の鼓動が加わって、皆の心を温かくふくらませていた。
 義母が箸を持つ手を止めて言った。
「この茶碗蒸し、しほさんが作ったの」
一瞬の空白があっただろうか。
「……はい」
私はうつむき、消え入りそうな声で答えた。
「とてもいいお味よ」
義母の明るい、高らかな声。
 器の中で美しくふるふると揺れる卵の黄色もミツバの緑も、急に色褪せ遠ざかっていく。
 「お店に頼みました」と、なぜ言えなかったのか。この時、母は、娘の嘘に注ぎ込むような溜息を、微かに漏らした。その吐息の温度を、今でも覚えている。困惑が、父のまなざしをいつも以上に優しくしていたことも。
 ふっと午後の陽が陰るたびに、心にも寂しい影が落ちた。その影がもつ小さな棘が心を時折刺した。父母も同じ思いだっただろうか。
 義母は、大層料理上手だったから、帰省時、私はただアシスタントでいればよかった。「これを切って」「ゴマをすって」「大皿を出して」、言われたことをこなすだけでよかった。でも、いつか、「茶碗蒸しはお願いね」と、私に発せられるのではと、内心ビクビクしていたのだ。
 私のついた嘘を、聡明な義母は見抜いていたに違いない。一度も、茶碗蒸しを作れとは言われなかった。私の心だけが、ずっとあの日の綻びた時間の中を往き来し、悔いの重さと、何度も向き合うことになる。


 ポツンと、またシベが落ちてきた。小さな雨粒を連れて。
 数十年経ったのだ。私の父、そして義母がもうこの世にいない。「時」の糸の端を握ってたぐり寄せ、過ぎ去った日を想ったのも、この道の静けさのせいだろうか。ふと、この世の向こう側の静けさを思う。できればそこを訪ね、「茶碗蒸しは苦手なのです」と告げたい。
義母も父も、微笑みを返してくれるだろう。
 花を支えたシベも役目を終え、やがて土の優しさへ還っていくのか。
 桜の枝のひそやかな影が、雨滴を光らせている。
 雨の匂いが濃くなった。




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