岡山市民の文芸
随筆 −第36回(平成16年度)−


待つこと信じること 白神 由紀江


 昨年、犬の訓練士で犬と人間との共生社会を唱えているT氏にお会いする機会があった。その折、「嘆きのシロ」の話を聞いた。
「吉備新線の道路わきで、飼い主が迎えに来てくれるのをじっと待ってる白い犬がいるんですよ。『嘆きのシロ』って呼んでるんだけど、そこは捨てられた場所らしくてね。雪が降っても陽がガンガン照っても、そこで飼い主を待ってるんですよ。もう三年になるかなあ、今じゃ毛の色が茶色っぽくなってますよ。」
 そのシロを動物愛護団体が保護しようとしても、隠れてしまうのでできないそうだ。T氏はペットを飼うなら生涯かわいがってほしいと話を結ばれた。私は彼の話を聞きながら、来てくれるはずもない飼い主をひたすら待つシロの姿を思い浮かべて胸が痛んだ。待つことは相手を信じるからこそできるのだろうか。
 我が家でも犬のコロは、私の帰りがどんなに遅くなっても私に散歩に連れていってもらおうと、毎日じっと待っている。
「まだ遠くてもあんたの車の音が、わしには聞こえんけどコロには聞こえるらしいな。」と夫は感心する。耳が車の音を察知すると、それまでお座りをして待っていたコロは、そわそわと喜びを体全体で表現し始めるらしい。
 我が子だって保育園の時、お迎えがすごく遅れた私を、電気のついた保育室で一人遊びながら待っていてくれたことがある。「お母さんよ。」と保母さんに言われると、急にカーテンの陰に隠れて、その後照れくさそうに笑いながらパッと飛びついてきた。そんな仕草を見せたのは初めてのことだった。どんなに不安だったことだろう。「ごめんね。」と言いながら抱きしめることしかできなかったけれど、待たせる身の私は、「信じて」待ってくれる心に誠実に応えなければと強く思った。
 そんな私も、待つ身になった忘れられない思い出がある。それは生後四か月のころ、子どもが病気にかかった時のことだ。治療を施して三か月後に、治癒したかどうかの結果が出ることになった。不安にさいなまれながら、ひたすら医師を、神を信じて三か月待った。
 じっと待っていることにいたたまれなくて、乳母車で散歩の途中にはお宮にお参りした。かけがえのない愛しい我が子のためなのに、ただ祈ることしかできないのが悔しかった。でも、神を信じて自分を励ますしかなかった。
 いよいよ三か月たって病院で診察を受け、医師から「大丈夫ですよ。」と言われた。その言葉を聞いた時には、信じて本当によかったと思う以前に、安心して思わずフーッと力が抜けてしまった。待つことは苦しかったけれど、それが報われれば、それまでの苦しみなんて吹っ飛んでしまったような気がする。
 先日T氏に再びお会いした際、
「シロはまだ待ってるんですか。」
と尋ねた。すると、
「いや、もうおらん。死んだのかもしれんな。」と彼はポツリと言った。私にはその目が、心なしか淋しく光ったように思えた。



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