岡山市民の文芸
随筆 −第35回(平成15年度)−


生者と死者の闘い 小郷 文子


 お体の具合いがよくなられたら、またお話を聞きに行こうと思っていた私は、その方の突然の訃報に言葉を失ないました。
 ハンセン病の療養所では、高齢化が進み、亡くなられる方も多いのです。
 熊本県で火がついた、ハンセン病患者が国を相手どった国家賠償訴訟に、東京・岡山も続き、世論も味方につけ、国を動かす大きなうねりを見せました。
 岡山の原告で、リーダー的存在であったその方とは、当時、私が裁判を支援する会の事務局をしていた縁もあり、長島の二つの療養所を訪問している中で出会った方の一人です。
 当初私は、「ハンセン病」も、またその歴史的事実もよく知りませんでした。しかし、調べていくうちに、「らい病」とも呼ばれたこの病気に対する国の政策が、他の病気とは異なり、「らい菌」の撲滅でなく、「らい病を罹患した人間」を社会的、生物的に抹殺する迫害の歴史であったと思いいたります。
 厳しい外出制限、断種や堕胎の強要、懲罰処分や監房(刑務所のようなもの)の存在、入園者と外の人間との往来は不自由で、この病気になれば強制的に収容されたことなどからも見えてきました。
 病気になり治療を求めて来てみれば、ろくな治療も受けられず、園内作業で指や足を失なう後遺症を残す方も多く、絶望し、帰れぬ故郷をどれほど恋しく思ったことでしょう。この病気は、本人だけでなく、残された家族にも差別、偏見の矢刃が向けられました。園の中でほとんどの方が偽名で暮らすのも、家族、親族に迷惑が及ぶのをさけるためです。
 自分を隠して生きることは、自分の存在を否定することです。想像するだけで、どんなに苦しかっただろうと思います。その方も、静かな方でしたが、らいと闘い、打ちのめされながら生き抜いて来た方でした。たくさんの仲間を見送ってこられ、自分があの世へ行ったら「なんも変わっとらんが」と言われそうだと語られたことがありました。人生の終焉で、園で静かに暮らす道もあったのに、それを選ばず、命がけでこの訴訟の原告として公の場に自らをさらし、「我々は人間である」と声をしぼり、身をしぼり、厚い壁の内にあった一人の人生を語られたのです。
 事実の持つ力は大きいということを私は目のあたりにします。一つひとつの人生を語る言葉は、マスコミを通じ、今まで何も知らなかった人の心に深く届いて行きました。大きな連帯の輪が広がり国を揺るがしました。
 愛生園の納骨堂には、三千余体の骨壺が並んでいます。手のひらに、すっぽり収まる程小さな骨壺、子どもの頃入園し、園にとじこめられ、死んで骨になって尚、故郷には帰れません。この裁判は、生者だけでなく、無念に世を去った死者たちも共に闘ったのではないでしょうか。東山の斎場で、天にのぼる煙を見つめていると、そう思えてしかたがないのでした。




(注)ハンセン病はかつて「らい」と呼ばれ、さまざまな誤解や偏見のために不当に恐れられてきました。国は、「らい予防法」のもと、患者をハンセン病療養所に隔離することによりハンセン病の予防を図ってきましたが、平成8年4月1日「らい予防法」は廃止されました。



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