岡山市民の文芸
随筆 −第35回(平成15年度)−


香りの道しるべ 三木 安子


 晩秋に咲く花を思っていると、盲学校の、あの健歩道を歩きたくなり訪ねた。
 事務所へ寄って挨拶をする。午後の校庭は静かだ。校門から西へ、塀に沿う道を歩く。低い塀に沿って、生垣風に一列に木が植えてある。木に案内されるように辿って行く。
 私が歩く先の、一本の木の傍らに白い杖を持った女性が立っている。四十代半ば位だろうか。近づく私の足音に気づいて「ヒイラギが咲いてますよ」と教えてくれた。
 濃緑の棘のある葉かげの白い小花から、甘ずっぱい香りが、ひそやかに漂っている。
「この花が咲くと、冬休みが近いと思って、寮生活だった私は、早く家に帰りたくてねぇ」
 遠い記憶を引き寄せるように、私に語る。


 三十年程前、盲学校の校長になられたH先生が、先ず考えたのは、学校の周囲に遊歩道をつくり、香る花木を植えることであった。―視覚障害者であっても、健康に歩けるように。花の香りで季節を感じ、心に潤いが持てるように―
 その道をH先生は「健歩道」と呼んだ。
 そのころ、私は、肩こり腰の痛むことがよくあって、臨床実習室へマッサージ治療を受けに通っていた。治療が終ると健歩道を歩いた。H先生と子供達の会話が聞える。
「ヨシオ君よ、その花の名前、教えてよ」
 その木に手を触れていたヨシオ君。
「トベラじゃ、校長先生は点字読めんのか」
「読めんのじゃ、困ったなぁ」
「困ったなぁ、先生、勉強せにゃいけんよ」
「ほんまじゃなぁ―」
 相槌を打ちつつ、大きな声で笑い合う。子供の頭をいとおしそうに撫でる先生。木には片仮名と点字の名札が付けてある。
 子供達が教室へ去ったあと、私の指で点字をなぞってみた。何度もゆっくりなぞる。でも私には何も感じ取れない。
 私のようすを見て、H先生は真剣な表情で話してくださった。
 点字は、指の皮膚がやわらこうないと、読み取れませんよ。子供の指はやさしゅうて、すぐ覚えます。この学校で読めんのは、校長のわたしだけでして。みんなに助けてもらっとります。
 私は恥しくなり、そっと手を摩っていた。


 女性は、鍼灸マッサージ治療院に勤めているが、時折、母校を訪ねては技術を磨くという。そして、健歩道を歩くと、卒業間近、心細くて泣いていた時「いい仕事ができる手だよ。笑顔で過すんだよ」梅一輪手にのせて、励ましてくださったH先生を偲ぶという。
 私は女性の話を聞きながら、私の身の上を過ぎた年月を、それとなく重ねていた。父母、夫を見送り、娘も嫁いだあの日、ある時―。幾度、この道に佇んだであろう。
 私の背に手をそえて、女性が言った。
「私に、マッサージをさせてください」



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