岡山市民の文芸
随筆 −第33回(平成13年度)−


サクランボの涙 高山 秋津


 「突然のさみしいお知らせになりました事、お許し下さい」、手紙は、こう結ばれていた。
 父の飼っているシェルティーが一匹だけ出産し、私の友人のOさん宅に引き取られたのは四年前の事だ。Oさんの娘、Yちゃんが、まるで宝物を受け取るように、そうっと腕を差し出して子犬を抱き取り、恥ずかしそうに微笑んだ日の事を、今も思い出す。
 きょうの便りには、その犬の「死」が綴られていた。散歩中、綱がすっと抜け、大通りへ飛び出しての交通事故。その場面を書き記すことは、どんなにか辛い思いだったろうにと考えると、その手紙を前に、返って申し訳ない思いで一杯になった。
 Yちゃんは、どうしているだろう。
 自分に投げつけられた、愛するものとの別れ―今、我が家の娘とYちゃんが、どうしてもオーバーラップしてしまう。
 娘が小学三年生の時の、ある日の夕暮れだ、涙でグショグショの顔で帰って来た。「ランちゃんが、ランちゃんが…」と言うばかりで、後は言葉にならない。「ラン」というのは、レモン色の羽毛に赤い目をしたセキセイインコである。ヒナの時から、娘が妹のようにかわいがり、手乗りとして育てていた。
 泣きじゃくる中での話を拾い集めて、ようやく概要がつかめた。公園に散歩に連れて行き、ちょっと目を離した隙に池に落下、助けようと手を伸ばしたとたん、何と大きな牛蛙が顔を出し、パクッとインコを飲み込んでしまったというのだ。「あっ」という間の出来事だったに違いない。
 茫然と池の側に立ち尽す彼女の姿が、容易に想像できた。散歩になんか連れて来なきゃよかった、池の周りで遊ばなきゃよかった、と、後悔するのはずっと後のことだ。その時は、ただもう、そのシーンに打ちのめされていたのではなかろうか。
 死骸のないまま、娘は、庭のサクランボ桜の根元に、小さな墓標を立てた。
 空はこんなに明るいのに、風はこんなに美しいのに、緑はふんだんに香ってくるのに、きのうまで側にいた“いのち”が消えている。小鳥の愛らしいしぐさを一つ一つ思い出しては泣き、空っぽの鳥籠を見ては泣いた。
 家主を失った籠はシンと静まり返って、そこに在る。それはそのまま、彼女の心の奥の寂しさの固まりのように見えた。Yちゃんが今抱えている思いも、きっと同じだろう。
 心にポカンとできた空洞を感じ取った後は、自分自身の手でそれを埋めていってほしいと、私は、しばらく鳥篭を片付けなかった。


 今年もサクランボが、濃い緑の葉から可憐な顔をのぞかせた。娘の立てた墓標は、いつの間にか朽ちてしまったけれど、ランの赤くて丸い目のようなサクランボは、年々数を増していく。
 二人の少女の流した涙―何だかこの小さな果実の、甘酸っぱい匂いに似ている。



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