岡山市民の文芸
随筆 −第33回(平成13年度)−


桜のしおり 白神 由紀江


「あなたも、映画を見てらしたんですか。」
 ふと、声をかけられた。喫茶店で、溢れてやまない感涙をぬぐっていたときのことだ。
 見ると、少し離れた席に、同じように一人座っている女性がいる。私より少し若い方だろうか。気づかなかった。見回すと、店内には、私たち以外お客はいない。
「はい。あの、『初恋の来た道』を。」
「私もなんですよ。泣けましたよね。」
 優しい、その言葉を耳にした途端、心を許していい友に巡り合った思いがして、急にあたりがふんわり明るくなった。
 その喫茶店は、映画館のそばにあった。映画が終わっても感動冷めやらず、そのまま家に帰りたくなくて立ち寄ったのだ。
 忙しい日々の海原に、ぽっと浮かんだ、緑の島のような祝日。心の寄る辺を求めて、以前から気に留めていた映画を見た。テレビの映画案内で知った中国映画「初恋の来た道」。真摯な愛を描く内容もさることながら、青春時代を呼び起こす、タイトルにも心ひかれた。それが、知る人ぞ知る小さな映画館で上映されると聞いて、矢もたてもたまらず見にきたのだ。忙しいのに何でまた映画を、と責める自分自身の声を振り切って―。
 私には、心の屋根裏部屋がある。暇を見つけて駆け上がり、美しいしおりを挟んでおいた小説の続きをわくわくしながら読んだり、映画を見たりする「癒し」の部屋。表向きの自分ではない、内なる心と向き合う場所と時間が、時に私には必要となる。
「恋人を思う心に焦点をあてて、シンプルに描いてあったからよけい感動したのかなあ。」
 私はゆったりとした思いで話した。おいしいコーヒーを飲みながら、自然にわき出る言葉で話す。お互いに、相手の名前も職業も知らないままで―。先入感もなく、とりつくろうこともなく、ありのままの自分でいる。そして彼女をそのままに受け入れる。その安らかさ。感動が二人の間を流れている。なんて幸せな時間。彼女の言葉には、私の住んでいる世界とは、また違った物の見方が感じられて素敵だ。映画もたくさん見ていらっしゃるらしい。映画を見た後での、お勧めのランチの店のことも教えていただく。どんな生活をされている方なのだろう。想像する。心ときめく。だからあえて聞かない。せっかく得た「非日常」のとき。映画という、美しい芸術を通して巡り合った、「想像の世界」のみを楽しみたかった。そこでは、私と彼女という存在そのものが、小説の主人公だ。
「お手紙を書いていいですか。」
 別れのとき彼女に言われて、私は名前と住所を知らせた。喫茶店のドアを開ければ、現実の世界。今芽生えたこの友情を、萎れさせないよう、大切に育てなければ、と思った。
 しばらくして、彼女から美しい、桜の押し花のしおりが届いた。自作だそうだ。彼女も私と同じように、心の屋根裏部屋で本を読んでいるのかもしれない。私は嬉しくなった。



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