岡山市民の文芸
随筆 −第32回(平成12年度)−


長島 恵美子


 チロチロと燃えるカセットコンロの火。その炎に有りし日の、柔和な義父の面影が浮かぶ。
 義父母と義姉が、岡山でも品薄になっていたらしいコンロのガスボンベを箱に詰め、井戸水のタンクを車に乗るだけ積み、当時住んでいた兵庫県明石市の我家を訪問してくれた冬の日を、昨日のように思い出す。阪神大震災の十日後のことである。
 被災地であった我家は、しばらくガスや水道が使えなくなった。割れた食器や本の散乱した部屋の片付け、一部の教室が避難所と化した近くの小学校への水汲み作業に追われながらも、私の住んでいた地域は、幸い食料品には困らなかった。
 また、夫の勤務先からは岡山支店経由で、社宅に連日のように救援物質を積んだトラックが着いた。カセットコンロのボンベ、水を入れるタンク、ペットボトルの水、食料品……。近隣の人と分け合う作業の合間、温泉や健康ランドの情報交換をしながら、
「普段より冷蔵庫がにぎやかで、これじゃ水汲み作業でダイエットもできないね。」
と、余震の不安を吹き飛ばすように、談笑していた。
 そんな折、見舞いに行きたいと義姉より連絡があった。夫は、道路の混乱の状況と充分な現状を伝え、それを一応、辞退した。実は、電話が不通の当日、岡山市の私の両親が安否を確かめるため、十一時間半もかかり、深夜に我家に来た経緯があったのだ。にもかかわらず、もう車に満載積み用意していた義父らは、翌日、再度連絡せず我家へ訪問してくれたのだった。
 前年の夏、胃の手術をして、すっかり回復したかのように見えた義父は、柔道で鍛えたたくましい腕力で、一・八リットル入りの水のタンクを両手に下げ、社宅三階の浴漕まで、軽々と何往復か運んでくれた。
「加古川辺りで食事もトイレも済ませた。貴重な水じゃから、置いとかれ。」
義父らは、お茶を入れようとする私の手を止め、早々と引き上げた。彼らの三十分の訪問を、かたくなに固辞しなくてよかったと思ったのは、ずっと後になってからだった。
 義父が天国へ旅立ったのは、その年の夏の日である。三日後、夫の実家のある岡山県和気町の観音山では、死者の霊を慰めるお盆の行事である炎の祭典、「和文字焼き」が行なわれた。和気橋の車窓から眺めた「和」文字のたいまつの「炎」と、震災後に活躍したコンロの「炎」、そして義父が猟で射止めたイノシシでよくご馳走してくれた、ぼたん鍋の「炎」がだぶった。
 あれから五度目の冬が過ぎようとしている。寄せ鍋、すき焼、おでん、ポトフ…紅葉の時期から花冷えのころまで、残りのボンベの炎は、我家の食卓で燃え続けた。最後の炎が消えても、義父の魂の灯は、家族の心の中でともり続けることだろう。



短歌俳句川柳現代詩随筆目次
ザ・リット・シティミュージアム