岡山市民の文芸
随筆 −第29回(平成9年度)−


水入りのやかん 岸野 洋介


 今年の新春、M小学校のクラス会に招かれた。教え子たちは、再開を喜び、おおいに歓待してくれた。なにか面映ゆい気がした。
 宴会の途中席を立った時、後を追うようにして、K君がついて来た。
「…修学旅行のことは、忘れておりません。先生のおかげで、恥ずかしい思いをせずにすみました。今も感謝しています…」四十路過ぎの商社マンが、頭をさげた。
 昭和四十八年秋、運動会が終わると、子どもたちは新幹線で修学旅行に行けると、そわそわしていた。そんなある日、K君のお母さんが来た。声をつまらせながら、夜尿があるので、かわいそうだが修学旅行に行かせたくないと言う。明るくて人気者のK君は、旅行の二班、副班長に選ばれ、張りきっている。
 K君につらい思いや、みじめな思いは、絶対にさせない。心配せずに任せてほしいと、自信たっぷりに話し、渋る母親を説得した。
 大見得は切ったものの、夜尿を防ぐ決め手はない。万一失敗した時、ほかの子どもに全く気づかれない名案も浮かばない。K君の夜尿対策に頭を悩ます日が続いた。ある夜、居間で水さしにつまずき、座布団を濡らしてしまった。その時、ああこれだと、一つのアイディアがひらめき、これを使うことにした。
 修学旅行一日目、秋晴れの奈良で、大仏に感嘆の声をあげ、鹿と戯れ京都の宿に無事ついた。入浴・夕食が終わる。騒がしかったどの部屋も零時を過ぎると、静まりかえった。
 先生たちが、巡回を終えては帰って来る。K君、大丈夫の声に安堵する。午前二時の見回りのとき、K君をトイレに連れて行った。
 ひと休みと、仮眠をとる。午前五時、宿の人に頼んでおいた水入りのやかんを片手に巡視に出向いた。一番にK君の部屋に行く。
 入口近くに寝ているK君に近づき、しゃがみこむ。K君はもじもじしながら、私の顔を見つめた。その目から、これは失敗したなと直感した。足元のかけ布団をそっとめくり、立て膝でよろけるふりをしながら、思い切りやかんをひっくりかえした。
 ウウッと低い声をあげ、K君が起き上がった。近くの子に聞こえよがしに
「ごめん、ごめん、先生がやかんをひっくりかえしてしまった。すまん、着替えてくれ」と外に連れ出した。着替えをさせながら、大丈夫だ、心配するなと耳元で囁いた。K君は黙って頷いた。押入れから布団を出して敷き替え、背中を軽くたたいて、床につかせた。
 朝食時、K君の部屋へ行く。
「先生、何でやかんなんか、持っとったんでえ。K君がびしょぬれになったがあー」
隣に寝ていたS君が、なじるように言った。
 水が飲みたくなって、やかんに水を汲み、ついそのまま来たんだと、弁解がましく答えた。K君は脇目もふらず朝食を食べていた。


 遠い日の出来事が、しだいに甦ってきた。クラス会はいちだんと盛りあがっていた。



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