岡山市民の文芸
随筆 −第26回(平成6年度)−


チエちゃんの手 片岡 由禧子


 駅の待合室に靴音が近づいて乗客が入ってくる気配がした。私は文庫本に目を落したまま、その足音が待合室に入ってくるのを聞いていた。突然
「おはようございまーす」
 という幼い女の子の驚くほど元気な声が響いた。思わず私は本から目を離して声の方をちらっと見た。通路に二つ並べて置いてあるごみ箱にかくれ子供の姿は見えなかったが、母親らしい若い女性が椅子に座ろうとしていた。朝といっても、すでに時計の針は十時に近かった。JR山陽線瀬戸駅の待合室はがらんとして私のほかには入口近くに年配の女性の二人連れがいるだけだった。私は駅前の町役場で用事を済ませての帰りだった。開け放たれた窓からは時折、線路際の木立の茂みが、さわやかな初夏の風を運んでいた。二人の女性は
「おはようさん。小さいのにええ挨拶がようできるんなあ。おりこうさんじゃなあ。お歳はなんぼかな。お名前はどういうん?」
 と挨拶を返し、口々に女の子に話しかけている。女の子は、はきはきと、チエという名前と、もうすぐ五歳だと答えた。女の子と女性のやりとりを私は本を読みながら聞くともなしに聞いていると女の子は
「おばちゃん、靴見せて。どんな靴履いとん」
 二人の側へ行き、かがみ込んで両手で靴をさわりはじめた。私は女の子の言葉と動作に、あれっと思い横目で盗み見した。赤いスカートにおかっぱ頭の子だった。私の孫と同じくらいだが、靴に興味を持ち、わざわざ手でさわるとは変った子だなと思った。
「すみません。何にでも好奇心が旺盛で、靴に特に興味があって…」
 母親は弁解しながら、こっちに来なさいと促した。母親に言われて立ち上った女の子と、本から目を上げた私と顔が合った。「あっ」と私は心の中で叫んだ。幼い二つの瞳は閉じられたままだった。女の子は目が不自由だったのだ。そうだったのかと、女の子の行為を納得した時、電車がホームに入った。私は母子と同席になった。女の子はすぐさま
「おばちゃん。靴見せて。どんな色の靴」
 私に声をかけ、靴のほか洋服にも両手で何度もさわった。母親は恐縮した表情で
「一度触れたらちゃんと覚えているんですよ。手が、チエの目の代りみたいなものなんです。生まれつきなんですが、光がわずかに見えるらしいんです。この通り恥かしがらずに誰にでも話しかけ、元気だけが取り得です」
 と話しながら、愛しむように女の子の黒々とした髪をなぜた。チエちゃんは笑いながら大人の話を聞いていた。笑顔が愛くるしい。
 電車はやがて私の降りる高島駅に近づいた。
「さようなら。お気をつけて」
 私が二人に声をかけて席を立つと、
「おばちゃん、握手しよう」
 とチエちゃんは小さい手を差し出した。私は小さくて、柔らかい、でも何でも覚えているチエちゃんの手をしっかりと握り返し、精いっぱいの笑顔を母親と幼女に向けた。



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