岡山市民の文芸
随筆 −第25回(平成5年度)−


梅雨の晴れ間に 乾 京子


 雨上がりの交差点に、老婦人と二人きりで信号を待っていた私は、婦人が履いている焦茶色の可愛い布靴に先ほどから見惚れていた。
 その靴は、マザーグースの挿絵の少女が履いていたような柔らかな布製で、カーテン吊りの細いわっか(輪)が、足元で微かに揺れていた。
 ふと顔を上げると、婦人の方も私を見つめている。のぞき込むようなお互いの目線に気が付くと、あわててどちらからともなく顔を見合わせ微笑んでいた。
 「ずいぶん履きよさそうな靴ですね…」
会話の続きをするように、私は婦人の傍に寄って話しかけた。彼女も待っていたように
 「ええ ええ、とても履きよい靴ですよ。医大(岡山大学附属病院)の近くのお店で買いました。主人が昨年亡くなりましたが、昔は一緒によく西川沿いを散歩して、帰りに駅前のライラック(喫茶店)に寄り、お茶を飲むのが楽しみでした…」
 婦人は主人との思い出を話し始めると、急に表情が生き生きとして、帽子からのぞく白髪が風にそよいで、銀色に光っていた。
 私もいま医大の歯学部に通っている。治療が終わると病院前のバス停を通り過ぎ、西川沿いの緑道公園を歩くことにしている。三十分ほどゆっくりと散歩して、遠回りになるが駅前からバスに乗る。
 水辺に咲く紫陽花は、露をふくんだように花の彩が美しく、流れに遊ぶ鯉の群れ…。木漏れ日の散歩道に足をとめ、水車の回るのを眺めていると、水面がゆれるようにこころが優しく和んでくる。
 「ご縁ですね、私も西川沿いはよく散歩しますのよ。」
 信号が青になる。婦人は左半身が少し不自由な様子で、杖がわりに身体を支えていた手押し車が、車道との十センチくらいの段差にすぐには進めないようだ。「手伝いましょうか」と手を添えながら一緒に降ろし、並んで横断歩道を渡りはじめた。
 婦人に歩調を合わせてゆっくりと歩いているつもりだが、どうしても私の方が二、三歩早くなる。立ち止って振り向くと、彼女を急がす形になる。後もどりして歩調を揃え、また一緒に踏み出していた。
 信号待ちの車窓から、射るような視線を感じている。老婆二人がよろよろと、路上の舞台で演技でもしているような恥ずかしさに、彼女を置いて逃げ出したかった。
 やっとのおもいで歩道にたどりつく。何気なく私が一股ぎして越えた三、四センチの歩道の段差に、彼女はまた立ち往生をしていた。
 バス停に車が見えている。いま駆け出せば間に合うが、走るのはやめた。見知らぬこの老婦人の「生きることは老いてゆくことですよ」そんな彼女の姿に何処か惹かれて、私はもうしばらく一緒に歩いていたいと思った。
 バスは二人の目の前を、梅雨の晴れ間を抜けるように、見慣れた街角に消えて行った。



短歌俳句川柳現代詩随筆目次
ザ・リット・シティミュージアム