岡山市民の文芸
随筆 −第24回(平成4年度)−


命綱 川元 十九蔵


 PKO法案が国会で承認され、自衛隊海外派兵が出来るようになった。我々戦争体験者は心が曇る。
 「命綱から手を離すな、離せばお陀仏だぞ」
 海にむかって投げた命綱を握りしめている兵隊に、私たちは駆逐艦上から叫び続けた。海面はおびただしい重油におおわれている。
 一九四五年五月五日十六時、沖縄海上特攻作戦で、私が乗った駆逐艦「霞」は米軍機の集中攻撃で被弾したが、その沈没寸前に乗組員は駆逐艦「冬月」に助けられた。
 「冬月」は「霞」を魚雷で沈めた。そして数時間前に撃沈された戦艦「大和」の生存者が泳ぐ海域に、救助に向った。
 海上は沈没の時に流れ出た重油に火が付き黒煙をあげて海原に燃えひろがっている。現場に近づくと、鼻をつく異様な臭いと焼けこげた浮遊物―。無数のうつ伏せになった死体が浮き沈みしている。右手を失って封書を握りしめた手だけをつき出した遺体。その近くには裏返しになった鉄かぶとが二個―。
 艦橋左見張員が叫んだ。
 「左三十度、漂流者発見」艦が右に廻ると波が立ち、漂流物の間に動く遺体の顔が見える。
 首のない遺体も見えて、思わず顔をそむけた。「冬月」の副長がメガホンで、
 「霞」の兵隊は本艦甲板下士官の指揮に従って救助作業にかかれと命令を下した。
 私たちは、用具倉庫から命綱を出した。
 「急いで引上げろ。米軍潜水艦が本艦を狙っている。移動しながら収容する。」
 士官の声に、私たちは急いで甲板の手摺から命綱を投げた。
 「甲板上に引上げられた兵隊は気が緩む。力盡きてそのまゝ靖国神社へ直行するやつもいる。引上げたら頬べたを二つ三つなぐって気合いを入れてやれ」
 背後で年長の士官の声がするが返事をする兵隊はいない。みんな負け戦さの恐怖と不安に目が血走り、口がきけないのだ。
 小さな板ぎれを何本も繋いで筏を作り、黒く汚れた海上を、波にもまれながら近づいてくる者がいる。顔を負傷した兵隊をのせた長い板を守るように五人で泳いでくる一組もある。艦に向かって泳いできた一人は力盡きたのか、浮沈し始めた。顔を見るとまだ幼い少年兵だ。上官が叱るように励ましている。
 「がんばれ―命綱は目の前だ」
 私たち「冬月」の艦上から声を揃えて叫ぶ。腕力のある者は命綱を登ってくるが、綱を持った手が油ですべって落ちていった者もいる。
 私が投げた綱を手で受けた兵隊の、顔から重油がたれている。ふと見上げた顔は眞黒で歯だけが白く光っている。唇が不気味に腫れあがり、充血した目に涙が光っていた。続いて泳いできた上官に命綱を讓った。
 私は再び綱を海上に投げた。綱を握ったのを確かめて引上げたが甲板の手前で力盡きた。「ありがとう」の声を残して海に落ちて沈んでいった。



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