岡山市民の文芸
随筆 −第23回(平成3年度)−


私の二十歳 池田 吉衛


 九州の南端、鹿児島県知覧町の木佐貫にある広い茶畑。此処はかつて陸軍航空隊の特攻基地があったところである。
 昭和六十年八月、私は四十年ぶりにこの地を訪ね、二十歳だったあの頃を回想した。
 四十年前の暑い日だった。当時錬成飛行隊の助教をしていた私にも、特攻隊員としての使命が下った。覚悟はしていても、それが現実のものとなると、死刑の宣告を受けたようでショックは大きかった。
 人はどんな逆境にあっても、それから抜け出して生き抜きたいと願望し、懸命の努力をする。ところが、特攻隊員には生きて帰ることの自由は許されていないのだ。
 知覧基地に転進した私は、マラリヤの再発で独り出撃から取残されて、肩身のせまい思いですごしていた。
 凡人は、死ぬ時期を知ると、一日生き延びた喜びよりも、明日の死を恐れ、生に向かってさまざまな幻想をえがく。
 生きたいという強い願望と、肩身のせまい思いとの板ばさみで、眠られぬ夜が続いた。
 そんなとき、いよいよ出撃命令が下った。最後の夜、母に会いたいと思う衝動から、宿舎である三角兵舎を抜け出し、松林の奥深くへ入った。そこで「お母さーん」と、思いっきり叫んだ。母の顔が浮び、涙が流れた。
 再び兵舎に戻ると、抜身の軍刀を狂気のように降りまわしている。学徒出身のM少尉の悲壮感に満ちた姿があった。
 自分の意思では抗いきれない死への旅立ちに、誰の心も激しくゆれ動いているのだ。寝床に横たわる隊員たちも、誰ひとり熟睡している者はいない。最後の夜をさまざまな思いですごしているのだ。
 まどろむまもなく出撃の時が迫った。やっと迷いから解放された私の全身には闘志があふれていた。これが十五歳の時から鍛えぬかれた軍人精神というものだったのか。
 飛行場には、爆弾を抱えた特攻機が、既にプロペラを回しながら待っていた。その時、突如超低空で来襲したグラマン数機が、特攻機めがけて一斉に銃撃を加えた。特攻機は次々と爆発し、一瞬のうちにその姿を消した。
 隣のたこつぼに退避していたM少尉は、頭に直撃弾を受けて血の海の中で絶命していた。
 人の生と死は紙一重という。私はこのようにしてまたも生きのびることができた。
 太平洋戦争末期、私の生涯において忘れることのできない生死を分けた成人式であった。
 茶畑の向こうには、薩摩富士と呼ばれる秀峰開聞岳が今も美しくそびえている。その向こうには沖縄の海がある。この山は、かつて多くの若者達の最後の姿を見送ってくれたのだ。
 私はじっと開聞岳を眺めていると、時間の中に自分が溶けこんでいくような思いがした。



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