岡山市民の文芸
随筆 −第22回(平成2年度)−


蔵王 藤原 幸子


「お疲れさま、いかがでしょうか」
 深夜の店は今日も賑わっている。我が理髪店の愛称は「蔵王」である。
 その名は三人の子供が幼いころ長時間の散髪に耐えさせるために発案されたのだ。
 はじめは童謡をかけていたのだが間がもてず、店主の愛聴している合唱曲に目をつけたのである。組曲「蔵王」が終るのはちょうど三十分なのだ。全九曲の混声合唱で店主自身も歌った思い出の曲である。
 この店も開店当初は要領を得ず、痛いの痒いの遅いのと、お客からは苦情の連発だった。
 あれから二十年経った理髪店「蔵王」は廃業することもなく健在である。常連の客は、主人をはじめ二男一女に姑である。その昔は舅もお客の一員だった。今ではほんとうに、他人さまのお客がお目みえすることもある。もちろんお代はいただかない。
 この「蔵王」も順風満帆ではなかった。長男が中三の春、突然店変えを申し出た。私は何の不服があるのか、外に出ても恥かしくないだけの腕は持っていると自負していたのに。腹立たしかった。主人は息子の気持ちを察したらしく気持ちよくお金を渡してやった。
 「今まで一度もプロにしてもらったことがないのだから行かしてやれ」
と私は諭された。
 しばらく開店休業が続いたが、二ヵ月程して「ちょっとー、蔵王を聴いてみようか」と言うではありませんか。
 反抗期に遭遇したのだ。しかし意外に早く顧客は帰ってきたのである。
 以来この理髪店は年中無休オールナイト営業で、お客様のニーズにお応えしている。
 決して待たせることなく、いつでもどこでも始められるのがこの店の特典である。
 主人など急に明日は出張だと言って夜十一時すぎ、この「蔵王」に駆け込んでくる。
 ヘヤースタイルはお好み次第である。調髪、刈上げ、ボブ、ショートカット、髪染め…。
 はじめは小一時間かかっていたのが「蔵王」のおかげで三十分には終れるようになった。七曲目の「吹雪」のあたりからそろそろ仕上げに入る。九曲目の「早春」のころには、鏡の中のお客とできばえを話している、という段取りになっている。ここまでの上達には努力研鑽も必要であった。この理容師も年に一、二回は研修を怠らない。自分の髪は部分カットはできてもパーマは無理である。そこで美容院に行き研修をしながら整えてくるのだ。
 待ち時間はそれこそ目を皿のようにして、美容師の技術を盗んでくる。この時ばかりは少々待たされても気にならない。週刊誌を読んでいる暇などないのだ。
 こうして「蔵王理髪店」の主役である義父に誂えてもらった鋏は「蔵王」の曲にのって力強くまたゆるやかに、心をこめてうごいている。



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