岡山市民の文芸
随筆 −第21回(平成元年度)−


再会 関山 保江


 四十八年ぶりの再会の電話が掛かって来たのは六月半ばであった。七月五日に先生方と僕達みんなで寄って過ぎた青春を語ろうと云う事である。昭和十四年縣北の山村の小学校へ赴任した頃週一度か二度軍事教練で学校へ来ていた教え子でない当時の青年Kからである。よく覚えていて呼んでくれた事に感謝する。四十八年の長い歳月を彼等はどんな人生を歩んで来たのか、殆どの者は戦争に駆り出され生きて還った者は僅かと聞いた。恐らく今度来る人は何人も居ないのかも知れない。誰と誰が来るのだろう。あの顔この顔が次から次へと走馬燈のように私の脳裏をかけ巡る。
 私の胸の中に是非共逢い度い懐かしい顔が浮かんで来る。教員住宅の近くに住んでいたNである。彼の母は優しい人で親元を離れた我が息子と同い年の私をとても可愛がって下さった。今でも生きて居られるだろうか、あの優しい顔が目先にちらつく。彼に逢ったら先づ安否を尋ねよう。長い間のご無沙汰である。彼には父が亡く母を助け父親代わりとして、幼い弟妹達と五人で暮らしていた。小学高等科を出るとすぐ道路工夫となった。今の道路整備員である。今頃の様なアスファルトの道ではなく土砂の道である。二十数キロの自分の持ち場を一年中(縣北の事雪の降る期間は休み)竹で編んだ大きな塵取り、平たい草取り鍬、竹箒等を大八車に積んで、一日何キロかずつ草を取り道を均して道路整備をしていた。自分の仕事に誇りを持って黙々と働いた。孤独で地味な仕事である。雨の日風の日炎暑の中を、朝早くから夜おそく迄一生懸命働いた。母を助けて百姓仕事にも励んだ。父の無い淋しさ、辛さ、彼は嫌と云う程の苦しみを耐え抜いていたに違いない。でも根が朗らかで、何時も丸い顔に笑みを浮かべ一度も愚痴を聞いた事はなかった。そして真面目で母似で優しかった。あの優しさの中にあんなに強い精神力と忍耐強さが何処にあるのだろうかと不思議でならなかった。
 其の後私は結婚の為学校を退職して満州に渡った。彼も間もなく召集され南方へ行き、行き長らえて無事帰還した事を風の便りに知らされた。そして帰還後は独学で勉強して隣接の市の土木課へ勤務、退職後は自分の町の町会議員となって今でもバリバリと頑張っていると云うことである。
 明日は七月五日再会の日である。心弾む思いと、逢ってもすぐに解るだろうかという不安、何人来られるのだろうか、四十八年の歳月は名前を覚えていても顔を変えている。もう頭も白くなっているかも知れぬ。子や孫も居るに違いない。幸せに包まれたNの姿が何故か目に浮かんで来る。思いは次から次へと尽きぬ。Nに逢ったら一番にお目出度うと云おう。よく頑張って出世したと・・・。私は少し興奮気味な気持ちを抑え明日は天気であって欲しいと願って床についた。



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