岡山市民の文芸
随筆 −第21回(平成元年度)−


お下がりの机 石原 埴子


高校に入学した娘が、自分の貯金を下ろして、ユニット方式の黒い机を買った。そのシステム化された機能は、部屋にも溶け合い、いかにも勉強が進みそうである。ところが、木の肌ざわりが優しくて、九年間の手垢と、“とんねるず”のシールが三枚貼ってある、今迄愛用の机も、捨て難いらしい。置き場所に困った娘は、考えた末、
「お母さんにあげる!」
と、一声。思わず爆笑を誘ってしまった。
「うれしいわ、お母さんも机がずっとほしかったんよ。それでも、私の机は、ずっとお下がりばかりじゃわ」
「お母さんは、お姉さんが多いもんな。まあ、この机はきれいに使っているから、新品と一緒よ」
「勉強をしなかった証拠かな?」
「ヤバイ。バレタカ」
 あれや、これやと言いながら、無事私の物になった机は、お下がりとはいえ、部屋の隅に輝いている。
 遠い思い出をたどってみると、最初の机は、お下がりではない。物が不足していた昭和二十九年入学の、五人目の子供に、机などは贅沢なのだが、父は、古い家庭用ミシンの機械を取りはずし、ミシン台を、机に仕上げてくれた。小さな身体には、丁度良い大きさで、引出しは小物入れ、蓋を開ければ教科書入れと、恰好の机になった。しかし、あまり勉強もせず、満たされぬ気持ちのまま、五円で買ったナイフで、机のあちこちを、削った記憶がある。その後、姉達が優秀な成績で、学業を終るにつれ、机のお下がりが、だんだんとあったが、どの机を使っても、姉達に優る成績はもちろんとれず、その空しさから、彫刻刀で机を傷つけた日々もあった。だから、私には、机を大事に使ったという、思い出がない。寂しい事だが、今になって、教育に対する父の考え方や、それを補う行為の数々が理解でき、身につまされる思いをしている。
 娘が、小学校に入学する時、多種多様の机の中から、なぜか、飽きのこないシンプルな物を選んだ。身体が大きくなるにつれ、机の高さも変り、心の成長と共に、机上に置く物も変わった。そして、たくさんの問題集に挑戦しながら、今春の高校入試の山を、乗り越える事ができた。
 こうして、私の物となった娘の机に向って書いていると、“とんねるず”の二人の笑顔が、シールから、飛び出して見えてくる。苦しかった受験勉強の合間、この笑顔で、娘はどんなに心が和んだろうと思うと、破れかけたシールもいとおしく、そのままにしている。
 娘の思い出が、一杯詰っているお下がりの机に、私の気持ちを重ねる時、母親として、娘の成長を喜び、見守れる事を、本当に嬉しく思う。



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