岡山市民の文芸
随筆 −第20回(昭和63年度)−


真空パックのイメジャリー 妹尾 純子


 時間は常に流れている。同じ速さで。時間は哀しみを知らない。しかし、時間を感じる人は誰しも哀しみを感じたことがあるものである。
 ギリシャ神話にでてくるクロノスという時間の怪物は、すべてのものを追いかけ食べ尽くしたが、その首に乗ったゼウスの神だけがその難を逃れたという。
 想い出の中の記憶は常に美しい。余程思い出したくない記憶はともかくとして、愉しかったこと、苦しかったことの多くは、常にクリスタルのようにキラキラしている。いずれは化石のごとく退化してしまう想い出も、ある一定の期間においてはキラキラ輝いている。丁度、スタンダールの「恋愛論」の中に出てくるザルツブルグの小枝に起こる「結晶作用」と等しく、一ヶ月も経てば小枝に結晶が棲み付いてくるのである。
 但し、記憶といっても、記憶が単体としてシンプルに独立することは少ない。想い出はたくさんのイメージが複合して、相互作用を及ぼしながら、その中から新たなイメージ(image)を醸し出す。それをイメジャリー(imagery)と呼びたい。
 例えば、家族でピクニックに行った夏の想い出。手に持ったバスケットの中のサンドウィッチ、おろしたての白いハンカチ、ピンクのフラットシューズ。部分的に想い出されるものが、組み合わさり調和して、一ヶ月後には別の雰囲気とともにその日が甦る。
「ああ、あの日の私は明るかったかしら」
などと思ってみたりする。
 例えば、桜が舞う春の思い出。少し肌寒い空気の中を歩きながら、風に吹かれてぬかるみに散った桜の花びらを踏んだ瞬間、心の中でひとの声とも叫び声とも判からぬ悲鳴が聞こえたことがある。桜の樹に針のような雨が一粒ずつあたる度ごとに、花びらが力を落としてゆくのを見て、身を裂かれるほど辛く思ったことがある。
 また、このような想い出の中の空間は、実際の空間より、かなり広く認知されている。何故なのだろうか。ひとつの理由として、記憶の中の場面には壁がないことがあげられる。つまり、余分なものは、メンタルな視界から排除され、自己にとって重要なものだけがクローズ・アップされるのであろう。
 更に、懐かしい思い出は時間が経つほど膨張し真空化され、遂には音も色も失ってゆく。振り向くと、そのまま化石になりそうな想い出を心の中で真空パックにして、タイムカプセルに隠しておくと、百年後には不死鳥のごとく復活する日がやってくるのであろうか。



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