岡山市民の文芸
随筆 −第18回(昭和61年度)−


「ハア」と「チロチロ」と「ハヤテ」 亀井 壽子


 「ハア」と「チロチロ」と「ハヤテ」
 新しく我が家の住人となった、野良猫の親子の名前である。
 六月も半ばを過ぎたある日、平素はめったに人が近づかない倉庫の西の、叢の中に、やせた黒い猫が伏せていた。私を見ると、飛びあがり、漆黒の小さな顔が隠れるほどに、真っ赤な口を開いて、「ハァッ」と威嚇した。
 そのあとに、白い綿をちぎっておいたような子猫が、ブルーの目で見上げていた。あまりかわいいので、おさえようとすると、ついと駈けて、横のブロック塀の下方にあいている、五pほどの穴から、スルリと逃げた。
 しばらくして、もう一度、同じ場所をそっとのぞいて見たら、立ち上った親の腹の下から、目にもとまらぬ速さで、黒い子猫が、反対方向に走って消えた。つづいて黒白まだら、さいごに白が後を追った。
 追われ、追われて見つけた仮の住処も、また、人間に発見されてしまったようだ。
 あわれに思った私は、ミルクと食物の入ったお皿を、親の前にそっとおいて家に入った。
 それから数日間、姿を見せなかった親子がもどってきた時には、いちばん動作の遅い白い子猫は、もう、いなかった。
 放浪の旅をつづけた彼等も、ようやく覚悟を決めたのだろう。
 今では、鼠のように、いつも私は、彼等に見張られている。
 お勝手の網戸の外から、私を見つけると、「ミイ、ミイ」と、食事の催促をする。お皿をもって出ると、親が、「ハアッ」と歓迎?してくれる。ながい間の人間不信のくせが抜けないのだろう。「ハァッ」の声をきいて、子猫は、こわいおばけを見たように、こけまろびながら、散って逃げる。「疾風」のように黒い子猫が逃げ、私が消えると、また「ハヤテ」のように、お皿に突進する。白黒まだらは、「こわいよう」「食べたいよう」で、気の毒なほど、行ったり来たり、ウロチョロしていた。
 これが、彼等に命名の由縁である。生まれてから一度も人間に愛されたことのない「ハア」は、「ハアちゃん」「クロ」「おハナはん」……、何と呼ばれようと、知らん顔である。
 利用はしても、人間に妥協はしないぞという、野性のしたたかさを「ハア」に感じる。
 食事が終れば、さっと、姿を消してしまう。
 こんな彼等を見ていても、親しみを覚えるのは、何故だろう。それは、いまだに人間社会にうまく適応できない自分の姿を、彼等の中に見いだしたからか。もしも、私が猫だったら、野良になって、淘汰されていたかも知れないな。「お互い、はみ出し者どうし、仲よくしようよ」と、彼等とつき合っている。「ハア」の、とがった目が、だんだん丸みを帯びてきた。今朝は、私に、のどを見せて「ハァ〜ッ」と、大きなアクビをした。
 「ハアよ。」と言うと、黒い瞳を、糸のように細くして、パチ、パチとまばたいた。



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