岡山市民の文芸
随筆 −第17回(昭和60年度)−


一灯も無く 沼 美佐保


  テレビは今年も、赤や青の灯籠がゆらぎ、かしぎながら、ゆっくり川面を流れてゆく光景を映しだしている。悲劇の街ヒロシマの夏はこの行事で幕を閉じようとしている。
 毎年この頃になると思い出す俳句がある。
 “広島や一灯も無く天の川”
 そして、この句をものされたかつての上司のことを…。
「こんどの部長は気難しい人らしいよ」
 例によって消息通が伝える人物像に、半ば恐れながら着任を待つ私達の前に、痩せて背の低い、目の鋭い人が鞄一つ提げて現れた。
 当時は、旧在任地から随行者が必ずあり、こちらも駅への出迎えが慣行であったから、成程これは相当な変人だぞと早速噂が飛んだ。
 今は珍しくないが単身赴任で、当地でばあさんを雇われたからあれこれせんさくする向きもあったが、御夫妻共被爆されて、特に奥様は目が殆んどお見えにならず、足も御不自由と聞いてからはピタリとその話は止んだ。御本人は御自分の被爆体験を語られるのを極力避けられたが、この類いの話は割合早く拡がるもので、一月もすると私達は部長の御家庭のことを大体承知していた。
 趣味の広い方で、墨絵や写真は素人の域を脱していられたし、文章も上手で、特にすばらしい俳句をものされた。墨すり要員で句座に連なって、鋭くそして寂しい句に接することができたのは幸いだった。
 岡山を最後に退職されることが決まっていたから、はなむけとして、俳句を中心の随筆集を編んで差し上げようという声が出て、有志が集まり部長には内緒で、部内の機関誌や、請われて地方紙に掲載された短文も集めた。有縁の方々にも書いて頂き、大体の体裁を整えてから部長の許へ持って行った時の、あのうれしそうなお顔は忘れられない。
“折にふれ”と題した、表紙に石蕗の花を描いた小冊子が刷り上がってきた日、
 「なによりの餞別だよ。ありがとう」
と言われた目にキラリと光ったものを見た。
 労をねぎらって部長の方から設けて下さった席で、私は雪の降る街を≠歌った。宴果てて出た街には本当に雪が舞っていた。昭和三十一年師走の夜の街を、小声で思い出だけが通りすぎてゆく≠ニ口ずさみながら、頬に雪を受けながら歩いた思い出を持っている。
 翌年一月末、着任の日と同じように鞄一つで飄然と去ってゆかれた。一切のセレモニーを拒否し、駅での見送りまでも固辞されての帰郷であった。
 それからの私は、八月が巡ってくるといつも広島や≠フ句を心に浮かべ、季節はずれの雪の降る街を≠歌い、涙しつつ今は鬼籍に入られた上司の御冥福を祈るのが習わしである。
 部長の俳号は只人であった。
   


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