岡山市民の文芸
随筆 −第17回(昭和60年度)−


チーゲル 額田 昭子


 チーズの味を言葉に表わすのはむつかしい。おいしいとすすめられても人の好みはさまざまだから、気に入るとは限らない。だから、買うときは、ちょっとした賭けである。
 私達夫婦が西ドイツの長男宅に滞在中、マルクト(青空市場)に連れていってもらったときのことである。お目当てのチーズ屋には大きな固まりのチーズが、でん、でんと並べられていた。平たい丸型、かまぼこ型、すでに切られて半月型のもの。これぞ本場のチーズと、私の心ははずんだ。思い切って手ぶり半分に声をかけると、「ヤー」と愛想のよい返事がかえり、大きなナイフで大ざっぱに切り取って計ってくれた。まず、切り口に青いかびの模様が見えるブルーチーズ。まわりに薄いアーモンド片をまぶし付けた白いチーズ。白い粉の吹いた黄色いチーズ。
 私はまだまだ欲ばって黄色い丸い固まりを指して、「これも、ほしい」。すると、はたと手を止め、「これは、チーゲルである」と声高にのたまう。「チーゲル?」 「ヤー、チーゲル!」。ぶるんと胸をゆすって居丈高でさえある。チーゲルって何だろう。どうして売ってくれないのかなと思うと、余計に欲しくなった。「了解。でも、私、これ、ほしい」。これで決まった。彼女はぞんざいに切り取ると秤にかけた。
 買って帰ったチーズは固まりのまま大きな丸い木皿に全部載せて、食卓の中央に置き、各自がナイフで好きなのを気ままに取り分けることにした。
 さて、チーゲルは、一口含むと、ちょっと舌を刺す。やがて、ねっとりと口の中に強烈な味が広がると、あとに臭みが残った。そして、丁度マトンを食べたあとのような臭いが喉につき上げてきて、ため息となる。
 チーゲルって何だろう。私はまだこだわっていた。ドイツ語ではどう綴るのだろうか。まず、T、I。そしてG、E、Rかしら。TIGER。えっ。英語読みすればタイガーではないか。まさか、まさか。何だか気味が悪くなって二切れ目には手が出ない。
 他のチーズはそれぞれにおいしかった。特にアーモンドの付いたのは、ラム酒がたっぷり入っていて香りも良くまろやかな味がする。皆の手が伸びて、これは瞬く間に無くなった。白い粉の吹いたのは、微妙な風味が一口毎に好ましく思われ、意外と好評であった。
 西ドイツでは、スーパーでもデパートでもチーズを切り売りしている。勿論、箱入りのもあり、その種類は極めて豊富である。心やさしいお嫁さんは、其の後も次次に珍しいチーズを買ってきては木皿にたっぷりと補給し、私達を喜ばせてくれる。
 しばらく滞在して、いよいよ明日は帰国という日、息子は、「税関で取り上げられるかも知れないよ」と言うのに、お嫁さんは、チーズを丁寧に銀紙で包んでくれた。
 食卓の木皿の上には、チーゲルが少少乾涸らびて残っていて、誰からともなく笑い出した。



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