岡山市民の文芸
随筆 −第17回(昭和60年度)−


母の乳 高塚 たか子


 若き日を夢み在すや六十路われに乳を給うと笑みませし母よ


 八月三日から七日までネブタ祭にどよめいた街にも、祭が終ると又静寂が戻って来た。
「あとは寒さを待つばかり」と青森の人は会う人ごとに挨拶代りに云う。脳軟化症を病み老い呆けた母の傍らに寝起きして約一ヶ月、やっと小康の日々となり、祭太鼓の消えた青森から帰岡することにした。
 日本海回りの白鳥号を利用すると、朝五時前に立って夕方六時半頃大阪着、あと新幹線で一時間あれば岡山へ着く。何度往復してもつくづく青森は遠いと思う。たとえ道がつながり線路が長く伸びているに過ぎないと思い直してもだ。
 いよいよ出発の朝まで帰岡の話は母に云えなかった。しかし万一急変があれば間に合わないかも知れない。挨拶だけはして行こうと思い直した。午前四時母を静かに揺り起こした。
 薄目を開けた母はにっこり笑った。
「お乳あげようか。」 「えっ」 「今飲ましたけれど余ったから、あんたにも上げようか。」 「お乳を? 私にも下さるの」
 しわくちゃのぬの袋のようにペチャンコの乳房を撫でながら思った。きっと母は若い日を夢見ているのだろう。乳が豊かであった母はわが子だけでなく、近所の乳の足りない赤ちゃんにも惜しみなくあげたと云う。その赤ちゃんが成人されて母へお礼の手紙を下さったと聞いたことがあった。「お母さんこれから岡山へ帰ります。お嫁さんの云う事を聞いて元気になって下さいよ。」言葉を詰まらせ私は続けた。「充分の介抱もせず帰るのは辛いけど、又暇を見つけて来ますから、元気で待ってて下さい。」私は手を仕え涙をこぼした。
 母は途方にくれたような顔をして、「私もついて行きたい。」と一言呟いた。
 日本海回りの汽車は大阪まで乗換えがない。そして表日本では大方失われた広い田畑、漁村、山村、が美しく展開する。折折見える日本海の波の色を放心したように眺めながら、弟嫁に託して来た母を思った。
 三十八才で父と死別した母は日も夜も働き抜いた。弟と私が成長して多少の余裕が出来て、何かほしいものはと聞いても、頂きもので充分あるからと何一つ求めなかったのに、母の肌着には丹念に継ぎが当てられていた。お小遣いを上げると病人の見舞に孫たちにと喜ばせ、手許に残さなかった。自分のため少しは貯金したらと苦情を云った事もあった。親類に重病人が出ると進んで看護を引受け寝食を忘れて介抱した。そして報酬は求めなかった。貧しかった母が頒ち与えたものは乳のみでなかった。
 小康は九月一杯続いたが十月に又悪化し、馳せつけた私の手を握ったまま母は逝った。八十四才であった。冒頭の歌は新聞歌壇に秀逸として載せて頂いた。撰者の前登志夫先生の評に 「この母なるものの悲しさを紹介せずにおれなかった」とあった。



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