岡山市民の文芸
随筆 −第16回(昭和59年度)−


草刈 藤井 松枝


 草刈りも今は草刈機で刈られる時代で、私のように、しゃがみこんで刈る人は少なくなった。それでも私は機械が苦手なので、昔ながらの鎌で刈るのである。
 今日は涼しいうちにやってしまおうと、早く出かけて田の畦刈り。一雨二雨降るとアッといううちに草も伸びて、ずいぶんと手ごたえがある。ざくざくと切れ味のよい鎌あたりに思わず仕事もはかどってゆく。朝露と汗で作業衣も手袋もじっとりとぬれて、そろそろ陽も昇って暑くなってきた。
 ちょっと手を休めて、畦の両側の稲をみると、あの小さな苗を植えたのが考えられない程に伸びて、しゃがんでいるとどこも見えない。まるで稲の森林に入ったようだ。鎌の柄で稲の株の中をゆすってみる。がっちりとした姿は愛らしくさえ感じられる。
 病虫害の無いように、天災の無いように、希いつつ又草刈り。刈りながら後へ向いてみると、刈ったあとはまるで人の首すじを毛ぞりしたようにサッパリとして、稲も涼しそう。
 もう一息刈ったらこの畦も終るぞ、陽もだんだんきつくなってきた。汗がだくだくと流れる。もうやめて帰ろうかと立ち上ると、心地よい風が吹いてきて、さわやかな草の香りと、稲のサヤサヤという音が胸にしみこんでくる。鎌で草刈りするのもまたよきかな。
 子供の頃、父母や祖父母が草刈りするのを、せっせと運んだものだ。その草を牛にやると、牛はまことにおいしそうにほおばって食べていた。口のほとりによだれをたらして、ぐっとのみ込んでは又ほおばって、見る見るうちに一束位は平らげてしまう。子供心に、人間がおまんじゅうを食べる位おいしいのかな(その頃おまんじゅうなど珍しくてなかなか食べさせてもらえなかった)と思っていた。
その牛の糞や牛舎で牛が踏んだ草は、田畑へやる何よりの肥料となって地味を肥やしていた。
 今では草刈り機でたおしてそのままにしてあるのが大方で、焼いて片づける人もめったにない。私は鎌で刈ったら又手をかけて運び、積み重ねて堆肥として野菜場やら花畑へやる。まあそれも年寄りだから出来ることであって、若い人や忙しい人は、よいことはわかっていても、なかなか出来ないことであろう。



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