岡山市民の文芸
随筆 −第16回(昭和59年度)−


石原 和美


 ある冬のことだ。家の裏の道を散歩していると、突然 こどもが、
「カゼ! カゼ!」
と叫んだ。風が吹いている、と意識していなかった私は、一瞬 立ち止まった。こどもは走りながら「カゼ!」と、また叫んだ。髪が揺れていた。
 私も少し走ってみた。頬に風が当たった。ああ、いま、あの子は「風」を発見したのだ。色もなく、つかむこともできない それでも確かに存在するもの、風、 を小さな全身で感じたのだ。不思議だったろう。驚いただろう。嬉しかっただろう。
 どんどん駆けてゆくこどもの後ろ姿を見ながら、私も嬉しくてたまらなくなった。大きな声で「カゼ!」と叫びたかった。しかし、そうするには少し世の中のモノに対して新鮮な感動を失った(ような気がする)私は、「そうねえ、風ねえ。」と深くうなずいただけだった。だがその瞬間、枯れた稲株の上から垣根へと、ひと筋すぎてゆく風がみえたと思ったのは、錯覚だっただろうか。
 「風のように生きたい。」と、二十歳ごろの私は思っていた。何ものにもとらわれず、自由に、何ものにも染まらず、空のあお、木のみどりを映しながら。春風のように、おだやかに、優しく、人々の上をとおりすぎてゆきたい、と願っていた。あまり深く、ヒトとモノとかかわりを持ちたくない、という気持ちの表われだったような気がする。
 しかし、木の葉を散らし、モノを吹き懐し、一晩中うなり声をあげて、ヒトを眠らせないのも風なのだ。そう思ったとき「風のように」という気持ちは、少しずつ薄れていった。実際、この十年ほどは「とらわれず、染まらず」どころか、さまざまなものとかかわりを持ち、いろいろな色に染めわけられ、からまるツタの葉のような日々だった、とも思える。
 そして今、私はまた風になりたい。海を渡り、路地を通り、見知らぬ人の窓辺へと吹く風に。どんなモノに、どんなヒトに出会うことができるだろうか、と思う。「カゼ!」と叫んだ二歳のこどものように 全身で感じる何かがあれば、と思う。あのこどもの感覚を、私の中によみがえらせるためにも、私は今、風になりたい。



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