岡山市民の文芸
随筆 −第15回(昭和58年度)−


ふるさとの並木道 仁城 万寿子


 岡山、この街に暮しはじめてもう四十年近くになる。廃墟の街は、今美しい街に造り替えられている。駅前広場で噴水のしぶきを浴びながら、放射線のように走る街筋を見ると、高いビルの林立が目新しい。どこでも見かける風景だが、ここではどの通りもそのビルの間に大きく育った街路樹が、季節季節を精一杯の美しい装いで人々をなごませてくれる。
 春の終りかける頃、駅前の大通りを、丈高く育った街路樹のユリの木を見上げて、緑と朱につつましやかに咲くユリの木の花を一生懸命みつけて歩いている自分にはっと気付くことがある。うっかりしていると、知らない間に時期を過ごしてしまう程ひっそりと咲く花がまた心をひく。私の住んでいる津島方面にもこの木はあるが、まだ若いのか花をつけているのを見たことがない。
 新緑も美しいが、秋の装いが最高の銀杏並木も、身近かな所では駅前や岡山大学の通りにある。岡大前の通りは、ふっと外国を歩いているような錯覚を覚えながら、何時も満ち足りた気持ちで木陰を歩かせてもらっている。黄金色にはららぐ落葉にふれながら、落ちたまった黄金色の落葉を踏んで散策するのはもったいない程のぜいたくに思える。
 もう一つ、私の大好きな道、五十三号線で運動公園の柵に添ったポプラ並木の道がある。亭々と、そこのみは空の大方をかくしてそびえ立つポプラ並木、まっすぐに天に向かって濃緑に全精力で夏を謳歌しているその姿に、私は幼い頃から青春までを過ごした朝鮮平壌の練兵場のポプラ並木を重ねて、特別な愛着を感じている。この並木は葉をすっかりふるい落して、煙るように細い枝々を高々と入り組ませてさゆらぎもせず立っている姿も、何とも言えない魅力を感ずる。淋しさに徹したその姿から心温かい言葉を聞く。冬のこの並木もいいが、ぼつぼつと温みだち、春も終る頃から初夏にかけて黒くぬれた、天に向かってそそり立つ枝々がぼうっと薄緑に霞む頃もまた、若々しい希望に満ちた生命感にあふれていて、しぼみかけた老の心を引き立たせてくれる。短いその一生を終って深々と吹きたまった落葉を踏む音も、秋の感傷として捨て難い。春夏秋冬、それぞれの姿で老いて行く私の気持ちを支えてくれるこのポプラ並木が、私の心の中に岡山をふるさととして育ててくれているような気がする。
 西川べりの柳、医大病院の傍の馬酔木の群、まだまだ私の知らないすばらしい木立が岡山の街の中にあることと思う。
 働き疲れた子等と、生き生きと生まれたばかりのような純粋な眼を持っている幼い孫等と共に、私は折にふれてこれ等の美しい木立にふれて歩きたい。子は、孫はきっとこれ等の木々と話すことを覚えるにちがいない。そして生きることに疲れた時、この木々は子に孫に話しかけ、生きる元気を与えてくれるにちがいないと思う。岡山の木々は私の中でふるさとを作ってくれている。



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