岡山市民の文芸
随筆 −第15回(昭和58年度)−


旗振り通信の再現 桑島 一男


 岡山市奥市の護国神社裏手の高台に、「旗振台古墳」と呼ばれる一角がある。
 もともとこの古墳は五世紀頃に作られた山頂式古墳で、先年発掘された際甲冑、鉄刀、メノウ玉などをおびただしく出土し、操山一帯に多い横穴式古墳の中でも珍しい方墳として知られているが、反面その名のとおり旗を振って通信し合った歴史上の地としての由来を知るものはあまりない。
 江戸時代に全国経済の中心地として繁栄した大阪では、早くから堂島で米相場が立ち、この相場の刻々の上下を少しでも早く各地の仲買人へ伝えるために考案されたのが、「旗振り通信」で、大阪を起点に東は尾張名古屋を経て浜松まで、北は敦賀、南は紀州和歌山、西は岡山から遠く馬関(現在の下関)にまでも達していたというから、当時としては最新の連絡手段といえた。
 もちろん旗の振り方には一定のきまりがあったし、曇天の日には黒い旗をよく晴れた日には白旗を使うなど細かい心配りのうえに、肝心のもうけに直接響く通信内容を盗み取りされないため、適宜の日数を置いて通信に使用する数字の振り方を変更するといった、秘密保持への対策も慎重に講じられていた。
 この米相場専用の「旗振り通信中継所」が、関西地方に多い「旗振山」「旗振岡」の地名の由来で、奥市の旗振台古墳の名もここから出ており、江戸中期から明治三十二年まで、この場所で備前富士の芥子山から送られてくる旗の合図(一日に三回)を精巧な遠眼鏡で見ていて、そのつど旧船着町三○八番屋敷にあった帳合浜(ちょうあいはま=米会所のこと)へ知らしていたということである。
 たまたま一昨年の春、私のところへ一面識もない関西在住のある会社員が尋ねてきて、数年前に私が刊行した本の中の「旗振り通信」の記事を見てこれをぜひ再現したいので援助してくれという申し出があった。
 もちろん私は快諾して、以来二人で中継点の設定やたびたびリハーサルを重ねた後、年末も押し迫ったその年の十二月六日の日曜に関西ボーイスカウト百余名の応援を得て、大阪堂島ー岡山間百七○キロの遠距離を二十六の中継基地でつなぎ、昔の史実どおり旗振り通信の再現に挑戦した。
 当日、京橋町の旧岡山電信局跡(京橋西詰森崎稲荷附近)へ最終受信所を設定し、私がその責任者となって直接受信に当たったが、事前のリハーサルで現在の旗振台には松の大木が乱立していて見とおし困難のため、やむなく臨時に中継点を国際ホテル屋上へ移動した以外はすべて順調で、前後三回にわたった堂島発信の通信文も、これに並行して電電公社経由によった正規の電報文と照合して一字の誤りもなく正確に受信でき、詰めかけた多くの報道陣から賞賛の拍手を浴びたものである。
 思えばこの日は、私にとって多年夢みたロマン再現のその日であり、また一面岡山市民へ郷土再発見を勧めるささやかな一石の企画となり得たのではなかろうかと、今に自負している。



短歌俳句川柳現代詩随筆目次
ザ・リット・シティミュージアム