岡山市民の文芸
随筆 −第14回(昭和57年度)−


折紙 嘉数 純栄


 子供室の小引出の前に、六色の色紙で折った小さなサイコロが落ちている。なかなか上手に折れているなあ。娘も大きくなったものだと、指先にとり、一人ほくそ笑んでみる。どこで、誰に教えてもらったものやら……。折り方はどうかしら、どんな組み合わせでと分解したまではよかったが、六枚をバラバラにしてしまったものだからもとどうりに収まらなくなってしまった。折り線が残っているものの、分解する時破れたのがいけなかった。
 何をしにこの暑い二階の室にあがってきたのだろう。用事は何だったかしら。このサイコロが目についたばかりにこうして、いじくる羽目になってしまったと、いらいらしながら、後悔ともつかぬ思いで苦心する。こんなはずではなかったのにと、我ながら無器用さに腹立たしささえ感じる。やっとの思いで仕上げた時には汗をかいていた。
 思えば、二人の娘を連れて、折紙とあやとりを手さげに入れてよく持ち歩いたものだ。おおむねそれは歯医者通いであった。待合室で使うことが多かった。親の不行き届きで、虫歯が絶えず、自分の虫歯はさておき、子供のは泣かれるとほっておくわけにもいかず、自転車を乳母車がわりにして、前後に二人を乗せ、押して歩いた。折紙、それは指先を使っている間に一枚の紙片は形に変わった。鶴、奴さん、舟、風船など……。待っている間は絵本もよいが折紙も夢があって好きだった。
 小引出をあけると、ある、ある。オルガンだの家だの花だの、折ったものやら折りさしのもの、色々な色紙がはいっている。もちろん鶴もある。何羽も何羽も。この鶴は平和公園でみたあの沢山の鶴の束とも、幼くして亡くなった少年の棺の上の鶴とも違った感触だ。いびつであった。おそらく、サイコロが折れるようになる何年も前の鶴であろう。大きさ、柄、紙質ともまちまちなのはきっと千羽鶴にしようと思って、折り始めるが続かず、時をあけてまた思いつき、とりかかったのであろう。細かく上手に折れているのは最近のかもしれない。
 折鶴を見ていると娘の指先が目の前にちらつき、折ろうとした心の曲折が伝わってくるようだ。「大きくなったものだな。」この母もひとつ協力しようかと大きめの色紙を手にする。まず三角に二つに折ってと、尖った先と先と重ねていて、「はっ。」と思った。見てはいけないものを見てしまった思いが胸底を走る。折紙には裏がある。真二つに折る、この当り前のことが私の心を捕えてしまった。それは散らかった新聞紙を折り畳んだり、広告のちらしを片づけたりする日常茶飯の時には感じたことのない思いだ。
 色紙の表と裏は人間のようだ。裏の白さを隠し、隠して仕上げる折紙。仕上がれば、裏が白いなんてそぶりも見せない。二つに折ったことにこだわるのは、人生の折り返し地点に立つ、家庭に埋もれた自分の年齢と同じだと、自分と折紙を重ねて見てしまった思いに違いない。



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