岡山市民の文芸
随筆 −第14回(昭和57年度)−


私の手 河原 富志恵


 節高の指、奇型のように歪んだ指、静脈が青く太く浮き立っている手の甲。これが女の手かと疑われるような荒くれた手。太平洋戦争のさ中から、終戦後の食糧難打開の策に、慣れぬ農作業に、薪こりから割木割り、養鶏と、休む暇もなく使った私の手である。
 そんな手であるが、掌は、つるつるとしていて、ほんのりと赤味を帯びている。中指に向って伸びている運命線、長い生命線、知能線も感情線も、明瞭に描き出されている。これが、八十一歳の掌であろうとは思われぬ程艶艶しさと、自画自賛の掌である。
 戦前から、また再度老境に達してから始めた和服裁縫の内職やら、ミシン縫やらに、夜の更けるまで、一日十六時間労働かなあと、つぶやいたことも、珍しくない生活であった。幾度もひょう疸を患って、手術をした傷跡が、当時を物語っている。とは云っても、決してそれが悲しい思い出ではなく、とてもなつかしく、どんなに輝かしく見えることか。私は、働くことが好きで、苦難を打開し、責任を果すことに、大きな喜びを感じていたのである。
 若い時からの、暮しが習い性となって、今もなお、朝が来ると、畑を訪れて、水遣りに、草抜きにと、曾てのように能率はあがらないが、静脈の浮き出た手が、相も変らず動き回っている。
 或る句会の席で、「悔いのないこの手を見入る老眼鏡」と云う私の句を俎上に乗せられ、稍々好評を得ていた時、列席の一人から異議の発言があった。「悔いのない人が此の世にあるでしょうか? そんな人があったらお目にかかりたい!!」と。私からみれば孫位ではないかと思われる、見知らぬ若い女の人の辛辣な批評であった。
 ご尤も。一生悔いのない人など、神ならぬ身のあろう筈がないと思う。どんなに優れた人でも、ましてや平凡な一主婦だった私に、何一つ悔いが無いとは云い切れない。対人関係に於いても、自分の考えや行動でも、悔いを残す幾多の過失があったであろう。
 しかし私は、その時の句には、手に重点を置いていたのである。喜んで酷使した「この手」に対して、少しの悔いもないと、喜びの追憶を句にしたのであった。
 人には、それぞれ考えに相違があるから、その女性には“私”が分って貰えなかったのであろう。「そんな人があったらお目にかかりたい」との毒舌?を聞き流したものの、何となく、一塊のわだかまりが残った。
 美容院の鏡に、荒くれた大きな自分の手が写った時、美しい人人の間で、無骨なこの手でお食事をした時など、場所柄によって、恥かしい思いをしたこともあるが、今はさらりと忘れて、人前も憚らず、大きな手が仲間入りをしている。
 静かに読書をしたり、針を持ったり、その合間に、悔いのないこの手を見ながら、追憶に耽ける。一男五女の羽ばたきへ、残る余生の夢を描いて独り悦に入っている私である。



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