岡山市民の文芸
随筆 −第14回(昭和57年度)−


昼下がり 山下 美津留


 夏の昼下がり、時折、吹いてくる路地風をあてにして、スダレの陰へ横になった。
 頭の向こうでは、行き交う車の、アスファルトにタイヤの擦れる音、炎天下に遊ぶ女の子の声などがしている。
 本を二冊、体裁に置く。夏の体は重くて、本を顔の上へ持ち上げる気力もない。右を向いて左の頁を読み、左を向いて右の頁をながめるといった横着ぶりである。そのうち疲れると天井に目をやるか、とじてしまうかする。
 そうしているうちに、ふと目を開けると、顔のまわりをうるさく飛び回る黒いものがいた。蚊か小ばえかであろう。
 いつまでもウロウロするので、てのひらでパチンとたたいた。けれど、指の間をす早く逃げてしまった。また現れるのでまたたたく。三、四回そんなことを続ける。
 続けながら思った。彼は、私とのタタカイを楽しんでいるのかしら。それとも、恐れおののいて逃げまどっているのかしら。
 たたかれてもたたかれても、そばにくるということは楽しんでいるのでは…?
 しかし、私は「うるさい」という一つだけの理由において、ねらいを定めると、エイッとばかりにたたいた。彼は小ばえであった。
 私のてのひらの中で静かになった。
 今まで読んでいた本は、志賀直哉の名作集であった。何度か手に取ったことのある本をまた、見てみる気になっていた。
 文章のお手本「城の崎にて」には、蜂が、ねずみが、いもりが登場する。そして死んでいく。「朝顔」には、あぶが出てくる。
 それらを気だるく斜め読みにして、そして、かつて谷崎潤一郎が評したという、蜂が飛ぶ音は、「ブーン」でもなく「ぶうん」、でもなく、作者が書いているように、まさしく「ぶーん」である…という何行かを目にしたあとだった。
 てのひらの中で静かになった小ばえの姿に私は感動した。うるさいほどの“動”のあとの“止”ということに心打たれた。
 母を看病したときにも、そんなことを感じた。息をひきとるまで彼女は痛がった。寝巻を替えるにも、布団をさわっただけでも、「イタイイタイ」と言った。それなのに、一瞬を境にして何も言わなくなってしまう。体を起してもどんなにしても痛くなくなってしまう。
 私は、悲しみの中にも、そんな生死の境界線を目のあたりにして、不思議でたまらなかった。
 遅い梅雨明けも宣言されて、スダレ越しには、入道雲がわいてくる気配である…。



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